【第129号】最澄と空海の時代3(最澄と空海の青年時代)

皆さん、こんにちは。最澄と空海の時代についてお伝えしている今年のかわら版。今月のテーマは最澄と空海の青年時代です。

一乗止観院

七八五年、十九歳で比叡山に入山して山岳修業に励む最澄。

鑑真が日本にもたらした天台大師智顗(ちぎ)の著書を読みふけり、願文(がんもん)と呼ばれる五つの誓いを書写。自分を律し、他人を助けるという菩薩道の決意文です。

やがて最澄のもとに仲間が集うようになり、七八八年、二十二歳の時に小堂を築き、自ら彫った薬師如来像を安置。これが、のちの一乗止観院、延暦寺に発展します。

それから六年後の七九四年、桓武天皇が平安京遷都を行います。都が比叡山に近づいてくるという幸運を契機に、最澄の飛躍が始まります。

比叡山は都の東北の鬼門に当たることから、一乗止観院は仏法力で都の鬼門を守る守護寺とされ、最澄と朝廷の関係が始まりました。

内供奉十禅師

最澄の優秀さと厳しい修業振りは朝廷の知るところとなります。

入山から十二年後の七九七年、和気氏の推薦によって最澄は内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんし)を命じられます。最澄三十一歳の時です。

内供奉十禅師の役割は、国家安泰を祈り、天皇に助言を行うこと。学徳兼備の僧の証であり、最澄の地位が確立しました。最澄は比叡山と朝廷を往来する多忙な日々を過ごします。

七九八年、智顗の命日に比叡山で初めて法華経を講じます。

八〇一年、和気氏の要請で南都の高僧十六人を集め、和気氏の氏寺高雄山寺(神護寺)で法華十講(法華三大部講義)を行います。

八〇二年、同じく高雄山寺で天台講義を行い、桓武天皇に喜ばれます。天台法華宗を立宗した最澄の名声は広く世間に知られるようになりました。

三教指帰

一方、山岳修業に入って放浪する真魚。当時は無空と名乗っていたようですが、本当の生き方を求める中で仏教に目覚めます。

無空は私度僧(得度を受けていない修行僧)となり、この頃から空海を名乗るようになりました。

私度僧として修行後、七九七年、空海は東大寺戒壇院で受戒。三十一歳で正式な僧侶となります。

当時の都、南都(奈良)の有力豪族は空海母方の家系につながる大伴氏。このことも東大寺で受戒するご縁になったようです。

七九八年、二十四歳の時に最初の著書、三教指帰(さんごいうしいき)を執筆。人間としての悟りと社会の安寧を求める仏教の素晴らしさを説きました。

この著書は親族に対して書いたものと言われています。将来を期待されていた空海の出奔への批判に対し、「人間の悟りと社会の安寧を求める生き方がなぜ非難されなければならないのか」という問いかけでした。

最澄と空海の入唐

八〇三年、遣唐使が派遣されることになり、最澄も短期間で帰国する還学生(げんがくしょう)=国費留学生として随行し、唐の仏教を学んでくるように朝廷から命じられます。

一方の空海も密教を究めるために入唐を決意。二十年間帰国禁止の私費留学生=留学生(るがくしょう)となりました。

最澄と空海は奇しくも同じ遣唐使船団の別々の船に乗って唐を目指します。

ふたりの入唐は、その後と日本の仏教に大きな影響を与えることになります。来月は最澄と空海の入唐。乞ご期待。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です