【第128号】最澄と空海の時代2(最澄と空海の幼小時代)

皆さん、こんにちは。最澄と空海の時代についてお伝えしている今年のかわら版。今月のテーマは最澄と空海の幼少時代です。

広野から最澄へ

七六七年八月十八日、最澄は琵琶湖畔の比叡山麓、近江国の坂本で誕生。

両親は、土地の豪族である三津首百枝(みつのおびとももえ)と藤子。幼少時代の名前は広野(ひろの)と言います。

広野は神童の誉れ高く、七七九年、十二歳の時に出家。

大国師行表(だいこくしぎょうひょう)の弟子となり、近江国分寺で修業生活に入ります。当時は僧になって官職に就くことが立身出世の途と考えられていました。

七八〇年、十四歳の時に得度。名を最澄に改めます。

七八四年、桓武天皇(七八一~八〇六年)が長岡京遷都。腐敗した奈良を離れ、新都建設を決意。そんな時代の中で最澄を襲名したのです。

長岡京遷都の翌七八五年四月六日、最澄は東大寺で正式な具足戒(僧の守るべき戒律)を受戒。正式な僧となりました。

比叡山への山籠(さんろう)

当時の奈良(平城京)は、遷都(七一〇年)以来七十五年を経て、腐敗と貧困で荒んでいました。

来朝した外国人(知識人や僧)の助力で寺や大仏、都市を建設したものの、財政は悪化、街には疫病と貧困が蔓延。民衆は苦悩に喘いでいました。

また、称徳天皇(七六四~七七〇年)の時には道鏡事件も発生するなど、国家仏教の南都六宗も腐敗していました。

南都六宗は事態打開を企図した桓武天皇の長岡京遷都にも抵抗。

遷都責任者の藤原種継の暗殺や、暗殺の嫌疑をかけられた早良親王の断食自殺の背後でも南都六宗が暗躍していたと言われています。

そうした中で僧となった最澄。平城京と南都六宗の腐敗に失望した最澄は、七八五年七月十七日に出奔。故郷の比叡山に籠り、草庵を建てて山岳修業に入ります。

当時の比叡山は山岳修行者(修験者)が彷徨(さまよ)う未開の荒山。俗世を離れた最澄は一心に修行に打ち込みます。

真魚から無空へ

一方、最澄に遅れること七年、七七四年六月十五日、空海は讃岐国の豪族、佐伯氏の三男として誕生。故郷は四国霊場七十五番札所の五岳山誕生院善通寺の近く、現在の屏風ヶ浦です。

幼名は真魚(まお)。兄二人が早逝したため、真魚は三男ながら佐伯家の跡取りとして育てられました。

父方の佐伯氏は国司(武人)、母方の阿刀(あと)氏は漢学者、儒学者の家系。

最澄と同様、空海も神童の誉れ高く、七八九年、十五歳で長岡京に上京。母方の伯父、阿刀大足(あとのおおたり)に師事して漢学を学び、七九二年、十八歳で大学に入学しました。

当時の大学は長岡京に一校あるのみ。家長の身分が従五位以上の子弟でなければ入学できない官吏養成の最高学府。真魚の前途は洋々だったと言えます。

ところが、真魚は立身出世を競い合う友人たちに空しさを感じて大学を去り、やはり最澄と同様に出奔。本当の生き方を求めて山岳修行に身を投じ、無空と名乗ります。

最澄と空海の青年時代

奇しくも、神童の誉れ高くして、それぞれ立身出世の途を捨てて若くして出奔した最澄と空海。ふたりの数奇な運命はまだ交錯しません。

来月は最澄と空海の青年時代をお送りします。乞ご期待。

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