【第127号】最澄と空海の時代1(時代背景について)

あけましておめでとうございます。足かけ十二年目に入ったかわら版。今年もどうぞよろしくお願いします。今年のテーマは最澄と空海の時代。今月はその時代背景についてです。

聖武天皇

壬申の乱(六七二年)を経て天智天皇を継承した天武天皇。その後は、持統(天武天皇の皇后)、文武、元明と続きました。

その間、都も近江国の大津宮(天智)、大和国の飛鳥浄御原宮(天武)、藤原京(持統・文武)、平城京(元明)と遷都。

平城京遷都(七一〇年)が奈良時代の始まりです。

元明天皇の次は元正天皇。いずれも女帝でしたが、その次に男帝の聖武天皇が即位。

奈良時代は聖武天皇(在位七二四~七四九年)の頃が最盛期。最澄(七六六~八二二年)と空海(七七四~八三五年)が生まれる少し前のことです。

昨年のかわら版でお伝えした役行者、行基、鑑真が活躍した時代です。

国分寺・国分尼寺

唐に対して初めて日本という国号が使われたのは七〇一年。奈良時代は国家の体裁が整えられつつあった時期ですが、聖武天皇はとりわけ中央集権的な体制づくりに腐心しました。

仏教に対しても例外ではなく、全国に国分寺・国分尼寺をつくり、各地の豪族を帰依させて管理体制を強化しようとしました。

平城京には総国分寺として東大寺を創設。そして、その象徴として大仏建立を計画し、その責任者(勧進聖)に行基が任命されました。

大仏開眼(七五二年)の翌年、正しい戒律を伝えるために、苦難の末に来日したのが鑑真です。

僧尼が守るべき戒律を授けることを授戒、授かることを受戒、授受戒のための施設を戒壇院と言います。

当時の日本には授戒のできる僧がおらず、戒壇院もありませんでした。

鑑真が東大寺に戒壇院をつくり、正式の授受戒が始まりました。

南都六宗

当時の平城京には、南都六宗という六つの宗派がありました。三論宗、法相宗、華厳宗、律宗、成実宗、倶舎宗の六つです。

いずれも朝廷公認であり、言わば国家仏教。宗派の依拠する経典の内容を学ぶ学問仏教(教義仏教)であり、東大寺を拠点に活動していました。

国家仏教として保護を受けていたことが、僧尼の緩みと堕落につながったほか、南都六宗は政治とも深く関わるようになりました。

そうした流れの中で発生したのが道鏡事件。僧の道鏡は女帝の称徳天皇(在位七六四~七七〇年)と親しい仲となり、自ら皇位に就くことを意識したと言われています。結局、道鏡は和気清麻呂らによって粛清されました。

桓武天皇

称徳天皇の次は光仁天皇(在位七七〇~七八一年)、その次は桓武天皇(在位七八一~八〇六年)。最澄の後ろ盾となった天皇です。

桓武天皇は、腐敗した奈良仏教と一線を画すために長岡京遷都(七八四年)を断行。

ところが、遷都責任者の藤原種継が暗殺され、犯人の嫌疑をかけられた天皇の弟の早良(さわら)親王も抗議の断食の末に逝去。

桓武天皇の周りには不吉なことが頻発したことから、和気清麻呂の進言を受け入れて平安京遷都(七九四年)。以後、平安時代に入ります。

そんな時期に最澄と空海は幼少時代を送りました。

最澄と空海の幼少時代

来月は称徳期に生まれた最澄、光仁期に生まれた空海。それぞれの幼少時代をお伝えします。乞ご期待。

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