【第126号】飛鳥・奈良時代の仏教12(鑑真のために建立された唐招提寺について)

皆さん、こんにちは。最澄・空海に至る飛鳥・奈良時代の仏教がテーマの今年のかわら版。今月は鑑真のために建立された唐招提寺についてです。

大和上

東大寺戒壇院を完成させてから三年後の七五八年、朝廷は鑑真に大和上(だいわじょう)の号を下賜。鑑真七十一歳のことです。

当時の僧尼は戒律を守るという意識は低く、授戒の作法についても良く知らなかったと言われています。

仏教や僧尼を管理することに腐心していた朝廷。鑑真がもたらした戒壇院と授戒の作法は、朝廷にとって待望の管理手段でした。

鑑真は仏法の普及に腐心。戒律を厳しく守るのであれば、ひとりでも多くの僧尼を育てたいとの思いです。一方、朝廷は僧尼の数が増えることを快く思っていなかったようです。

唐招提寺

鑑真は僧尼にとっては有難くも煙たい存在。朝廷にとっては、戒律や授戒の作法は有難いものの、鑑真が多くの僧尼を育てることには後ろ向きという複雑な状況でした。

七五九年、平城京の中心の新田部(にたべ)親王の旧邸地が下賜され、わが国初の律寺(りつじ)である唐招提寺が鑑真のために建立されました。

その背景には、厳しい戒律の実践を求め、多くの僧尼を育成しようとする鑑真には唐招提寺に籠もっていただきたいという輻輳(ふくそう)した雰囲気があったと言われています。

日本三戒壇

鑑真が唐で修めていたのは天台宗と律宗。

天台宗は慧思(えじ)に師事した智顗(ちぎ)が集大成した教学。それを日本に伝えたのが鑑真。後に最澄が日本の天台宗の祖師となったのも、鑑真が唐からもたらした天台典籍があったからこそです。

もうひとつの律宗。戒律に関する教学であり、授戒を行う戒壇院の理論的裏づけと言えます。

鑑真のもたらした律宗によって、東大寺戒壇院、下野(しもつけ)薬師寺、筑紫観世音寺という日本三戒壇が設けられます。

その東大寺戒壇院で授戒したのが空海。七九七年のことです。

三戒壇に代わる新たな戒壇を比叡山に作ろうとしたのが最澄。実現したのは最澄没後一週間後、八二二年のことでした。

身命を惜しまず

七六三年、鑑真は唐招提寺で結跏趺坐(けっかふざ)して亡くなります。七十六歳でした。

奈良時代の文人、淡海三船(おうみのみふね、七二二~七八五年)は、七七九年、鑑真の偉業を伝える唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)を著します。

日本へ渡って戒律を伝えることを弟子たちが渋った折の鑑真の言葉を、東征伝は次のように伝えています。

曰く「是れ法の為の事なり。何ぞ身命(しんみょう)を惜しまんや。諸人行かざれば、我則ち去(い)くのみ」。

天台宗が重んじる法華経の中に何度も「身命を惜しまず」との記述が出てくることが想起されます。

鑑真は舎利三千粒(しゃりさんぜんりゅう)も日本に伝え、多くの寺院に仏舎利が渡りました。

また、授受戒の作法を伝えるために多くの経典、仏像、法具等をもたらしたほか、漢方薬、寺大工なども日本に伝えました。

最澄と空海

鑑真没後三年、七六六年に最澄が誕生。さらに、八年後の七七四年、空海が誕生します。

過去四年間、釈迦の生涯、仏教伝来、聖徳太子の生涯、飛鳥奈良時代の仏教をお伝えしてきたかわら版。来年はいよいよ最澄と空海の生涯。乞ご期待。それでは、良い年をお迎えください。