【第125号】飛鳥・奈良時代の仏教11(日本に授戒の作法を伝えた鑑真について)

皆さん、こんにちは。最澄・空海に至る飛鳥・奈良時代の仏教がテーマの今年のかわら版。今月は日本に授戒の作法を伝えた鑑真についてです。

天台宗と律宗

六八八年、唐の揚州で生まれた鑑真。当時の唐は、高宗の皇后であった則天武后の全盛期です。

七〇一年、十四歳の時に揚州大雲寺で出家。七〇一年の日本は大宝元年。唐に対して日本という国号を初めて使った年です。

七〇八年、二十一歳になった鑑真は、長安の実際寺で具足戒(ぐそくかい)を受けます。

具足戒とは出家した僧尼が守るべき戒律。僧に対して二百五十、尼に対して二百四十八と言われています。

その後の鑑真は、隋代に大成した天台宗と唐代に興った律宗(戒律の学)を究めます。

栄叡と普照

七三三年、日本の留学僧、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)が遣唐使船で入唐。

日本は聖武天皇の時代。朝廷が行基の布教活動と行基による弟子の得度を認めた頃です。

日本では僧尼も在家信者も急増。しかし、仏教の教義や戒律の理解が十分とは言えない状況でした。

そこで、朝廷は唐から戒律の師を招くことを計画。栄叡と普照はその命を受けての入唐でした。

当時、鑑真は四十六歳。華中、華南では鑑真ほど戒律に優れた人はいないと言われていました。

その評判を聞いた栄叡と普照。入唐から九年を経た七四二年、揚州大明寺でようやく鑑真と面会。栄叡と普照は鑑真に来日を要請します。鑑真は既に五十五歳になっていました。

苦難の来日

当時の唐では、天台宗の祖師のひとり、慧思(えし)が日本の王子に転生し、仏法を説いたという伝説が流布していました。その王子とは、聖徳太子のことです。

鑑真も日本に対して良い印象を抱いており、栄叡と普照の招請にどのように応じるか思案しました。

五十五歳の鑑真は年齢的に日本に渡ることを躊躇。そこで、弟子たちに日本に渡る意思がないか尋ねました。

しかし応じる者はなく、結局自ら日本に渡ることを決意。弟子の祥彦(しょうげん)が鑑真を止めるものの、ついに渡航を決行。

無断出国は唐の国禁。鑑真は七四三年に二回、七四四年にも二回、七四八年に一回、都合五回の渡航を試みるものの、密告や悪天候によっていずれも失敗。

七五〇年、六十三歳の鑑真は失明。弟子の祥彦や栄叡にも先立たれます。

それでも日本に渡ることを諦めない鑑真。七五三年、六十六歳の鑑真は六回目の渡航でとうとう秋津野浦(あきめやのうら、鹿児島県)に漂着。大宰府を経て、七五四年、平城京に到着しました。

東大寺戒壇院

朝廷に歓待を受けた鑑真。やがて、東大寺大仏の前に設けた戒壇で聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇らに授戒。日本での活動が始まりました。

鑑真が日本に伝えたのは、戒律を授ける師僧三人、証人僧七人の十人からなる授戒の作法。

七五五年、東大寺戒壇院が完成し、いよいよ日本でも戒律を守る僧が正式に誕生する環境が整いました。鑑真六十八歳のことです。

唐招提寺

来月は鑑真が建立する唐招提寺についてです。もっとも、その背景には複雑な事情もあったようです。乞ご期待。