【第124号】飛鳥・奈良時代の仏教10(大仏建立勧進聖としての行基の晩年)

道昭(どうしょう)

皆さん、こんにちは。最澄・空海に至る飛鳥・奈良時代の仏教がテーマの今年のかわら版。今月は大仏建立勧進聖(かんじんひじり)としての行基の晩年についてです。

東大寺大仏

七四三年、聖武天皇は大仏(盧舎那仏)建立を発願。行基は大仏造立勧進聖(かんじんひじり)を命じられます。

もともとは現在の滋賀県信楽町近くの紫香楽宮(しがらきのみや)で始まった大仏建立。放火などの妨害に遭って、場所の変更を余儀なくされました。

最終的に選ばれた場所が平城京の東側。現在の東大寺大仏殿です。

行基は多くの弟子を率いて東奔西走。平安時代の東大寺要録に基づく専門家の調査によれば、延べ二六〇万人が建立に関わり、大仏と大仏殿の建立費用は現在の価値で約五千億円と推計されています。

大仏師は国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)、鋳師は高市大国(たけちのおおくに)、高市真麻呂(たけちのままろ)。いずれも行基の人脈により集められました。

大仏開眼供養会

七四五年、行基は日本初の大僧正に任じられます。しかし、大仏完成前の七四九年、活動拠点の菅原寺(喜光寺)で逝去。八十二歳でした。

七五二年、大仏開眼供養会には行基の弟子景静が都講(とこう=責任者)となり、開眼導師はインド僧、菩提僊那(ぼだいせんな)が務めました。

開眼供養会には、聖武太上天皇(既に譲位)、光明皇太后、孝謙天皇をはじめ、一万数千人が参加したと記録されています。

大仏と大仏殿は一一八〇年と一五六七年に二度焼失。現存のものは一六九一年建立の三代目です。

行基は弟子たちに火葬され、竹林寺(奈良県生駒市)に埋葬されました。

善悪現報

行基が墾田や橋・道・港・溜池の建設など、多くの社会事業を行ったのは、その教えと関係しています。

善悪現報(ぜんあくげんぽう)を説いて、懺悔、贖罪、積善(しゃくぜん)を勧め、貧困や争いのない世の中を目指し、自己の研鑽と具体的な貢献を求めました。

布施屋に集まり活動した僧尼や民衆は、善因(ぜんいん)に対する善報(ぜんぽう)を実感し、行基の下に集まった人は数万人と言われています。

行基はそのほかにも様々な社会活動を行いました。全国を行脚し、最初の日本地図を作ったことでも知られています。

修験道

山岳修行を行う修験道は日本古来の民俗信仰。自然に宿る八百万神を敬い、験力を得るための修行です。

神道や道教にも通じ、やがては仏教、とりわけ密教との関係も深まります。

役行者と行基も山岳修行者。葛木(城)山を開きました。この時代、ほかにも多くの修験者が修行場を開山。

白山の泰澄(六八二~七六七年)、箱根山の万巻(まんかん、七二〇~八一六年)、日光山の勝道(しょうどう、七三五~八一七年)、出羽三山の能除(のうじょ、生没年不詳)、英彦山の法蓮(生没年不詳)などです。

鑑真

最澄・空海に至る飛鳥・奈良時代の仏教の中で、役行者と行基に加えて、もうひとり忘れてはならないのが鑑真。日本に授戒の作法を伝えました。来月は鑑真来日についてお伝えします。乞ご期待。

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