【第123号】飛鳥・奈良時代の仏教9(勧進聖として知られる行基)

皆さん、こんにちは。最澄・空海に至る飛鳥・奈良時代の仏教がテーマの今年のかわら版。今月は大仏建立の勧進聖(かんじんひじり)として知られる行基についてです。

道昭(どうしょう)

奈良時代の山岳修行者の二大巨頭である役行者と行基。役行者は伊豆配流の身となった一方、行基は日本初の大僧正となります。

六六八年、行基は河内国大鳥郡(後の和泉国、現在の大阪府堺市)で誕生。父も母も百済系渡来人の家系です。

六八二年、飛鳥の大官大寺(だいかんだいじ)で得度して出家。

六九一年、葛木(城)山(金剛山)の高宮寺(現在の奈良県御所市)で徳光禅師を戒師として受戒。

葛木山や高宮寺周辺は役行者の活動拠点。行基と役行者の接点が感じられる地縁です。

当時、唐で三蔵法師玄奘に師事した道昭が帰国して飛鳥寺に在住。六九二年、行基は道昭に師事しました。

道昭は京都の宇治橋を建設。行基が数多くの土木工事を手がけたことは、道昭の弟子となったことと関係があるようです。

家原寺(えばらじ)

受戒後の行基は生駒山地で山岳修行に入り、やがて山を下りて布教活動を始めました。

七〇四年、生家に家原寺を興した後、機内全域で寺の創建に腐心。最終的には四十九院(しじゅうくいん)と呼ばれる多数の寺を建立しました。

行基の下に集まった僧尼や民衆は布施屋(ふせや)という道場に住み、墾田を行い、橋・道・港・溜池などを建設。菩薩行(利他行)=衆生救済の実践を重ねました。言わば社会事業です。

七一〇年、平城京遷都。中央集権の律令国家を目指した朝廷は、僧尼令によって布教活動を監視します。布教活動が民衆の扇動につながることを恐れたからです。

七一七年、元正天皇の詔(みことのり)で行基は僧尼令違反として名指しで批判されます。曰く「僧尼は寺で仏道を教えるもの。小僧行基とその弟子たちは、街でみだりに罪福を説く」。

僧尼令の違反者は還俗(げんぞく)が義務。しかし、行基の社会活動には朝廷も一目置かざるを得ず、結局行基は還俗しませんでした。

聖武天皇行幸

七三〇年、朝廷は行基に師事する修行者に得度を許します。

七三六年、入唐僧や遣唐使の要請で来日したインド僧の菩提僊那(ぼだいせんな=ボーディセンナ)、チャンパ(ベトナム)僧の仏哲らを行基が平城京に迎え入れ、大安寺を提供。

菩提僊那は、後に東大寺大仏開眼供養の導師を務めます。

七三八年、行基は朝廷より大徳の称号を与えられます。

七四一年、聖武天皇が京都山背(やましろ)の泉橋院という行基の布施屋に行幸。為奈野(いなの=現在の兵庫県伊丹市周辺)の地を与え、身寄りのない人々のための給孤独園(きつこどくおん)という施設の建設を許可。

天皇行幸で行基の地位は揺るぎないものになったと言えます。

行基年譜(一一七五年編纂)によれば、行基の社会事業は「架橋六所、直道一所、池十五所、溝五所、樋三所、船息二所、堀四所、布施屋九所」に及んだと記されています。

勧進聖

七四三年、聖武天皇は大仏建立を発願。行基は勧進聖(かんじんひじり)を命じられ、多くの弟子を率いて活躍します。

七四五年、七十八歳の行基はついに初の大僧正に任じられます。

来月は大仏建立勧進聖としての行基の晩年をお伝えします。乞ご期待。

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