【第121号】飛鳥・奈良時代の仏教7(役行者)

皆さん、こんにちは。最澄・空海に至る飛鳥・奈良時代の仏教がテーマの今年のかわら版。今月は役行者についてです。

神仏習合(しんぶつしゅうごう)

随・唐に対して倭国(日本)は対等の立場であることを主張した聖徳太子が六二一年に逝去。

その後の日本は、乙巳(いつし)の変と大化改新(六四五年)、白村江の戦い(六六三年)、壬申の乱(六七二年)、大宝律令(七〇一年)などの内外の一大事を経つつ、中央集権国家としての体制を整えていきました。

この間、隋・唐や朝鮮三国(高句麗・新羅・百済)に留学した僧尼たちは最新の知識や国際情勢を知る立場となり、治世においても重要な役割を果たしました。

そうした中で、日本の仏教は独自の発展を遂げます。もともと異国神として伝来した仏は、徐々に日本古来の神霊と混合し、神仏習合の概念が形成されていきました。

とくに、古くから山岳が神霊の住処(すみか)として崇(あが)められていたことから、山岳修行を行う修験者(しゅげんしゃ)や山伏(やまぶし)が仏教に影響を与えることになります。

役行者(えんのぎょうじゃ)

その修験者や山伏が修験道の開祖と崇め、崇拝したのが役行者です。

続(しょく)日本書記には、六九九年に「役君小角(えのきみおづぬ)を伊豆嶋に配流」と記されています。役小角(えんのおづぬ)または役行者と呼ばれる修験者が登場する正史(朝廷編纂の歴史書)は続日本書記のみです。

続日本書記や鎌倉時代に修験者が編纂した諸山縁起(しょざんえんぎ)によれば、役行者は大和国葛木(やまとのくにかずらき)、現在の奈良県御所(ごぜ)市の生まれ。幼少以来三十年余にわたり葛木(城)山で修行を重ね、験力を身につけ、鬼神を使役できるほどになったと言われています。

韓国連広足

その役行者が伊豆に流された理由について、続日本書記や諸山縁起は、役行者を師と仰いでいた韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が「役行者は妖術を使って陰謀を企てている」と訴え出たためと記しています。つまり、弟子による讒言(ざんげん=密告)です。

広足は七三二年に外従五位下の典薬頭(てんやくのかみ)に昇進。医者を管轄する典薬寮(くすりのつかさ)の長官です。

したがって、六九九年頃の広足は典薬寮の若い役人。宮廷呪禁師(じゅごんし)として医術を学んでいたと思われます。験力を備えた役行者を師と仰ぎ、修験道の医術を身につけようとしていたのでしょう。

伊豆配流

斉明(六五五~)、天智、弘文、天武、持統(~六九七)と続く歴代天皇の晩年、常に皇位継承を巡って朝廷内で権力闘争が生じ、有力者が吉野などの山中に籠る不穏な行動が続きました。

そのため、山中に籠る私度僧や修験者にも、国家叛逆の嫌疑をかけられる風潮があったようです。

既に朝廷に存在が知られていた役行者に対して、妖術を使って陰謀を企てているとの広足の讒言。伊豆配流には朝廷の権力闘争も影響していたようです。役行者と広足の間に何らかの確執があったとも言われていますが、真相はわかりません。

霊異記と孔雀経法

最澄・空海が活躍していた八二二年に編纂された霊異記にも、役行者の説話が記されています。その内容から、最澄・空海が追求した密教と役行者の関係が読み取れます。

来月は霊異記の内容と役行者が体得していたとされる孔雀経法についてお伝えします。乞ご期待。