【第120号】飛鳥・奈良時代の仏教6(壬申の乱)

皆さん、こんにちは。最澄・空海に至る飛鳥・奈良時代の仏教がテーマの今年のかわら版。今月は壬申の乱についてお伝えします。

大海人皇子と大友皇子

白村江の戦い(六六三年)の後、国防体制整備と内政改革を開始した中大兄皇子。

六六一年の斉明天皇崩御の後、皇位に就かずに事実上の統治を行っていた中大兄皇子でしたが、六六七年、大津(近江)遷都を行い、六六八年、ようやく天智天皇として即位。

六七〇年、初の戸籍として庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成。中央集権国家ができあがりつつありました。

天智天皇の弟は大海人皇子、息子は大友皇子。大海人皇子は長く斉明天皇、天智天皇を補佐し、人望がありました。

皇位継承を巡る微妙な空気が流れる中、天智天皇が病床に着きます。

六七一年、病床に大海人皇子を呼んだ天智天皇は「跡を任せたい」と告げます。

しかし、皇位継承の意思があることを示せば身の危険につながることを察知した大海人皇子は、病気を理由に固持し、出家して吉野に籠もります。

壬申の乱

六七二年、天智天皇が崩御すると、大友皇子が弘文天皇として即位。しかし、朝廷内部では大海人皇子への同情と期待が続いていました。

吉野の大海人皇子、大津の弘文天皇の間で高まる緊張感。そうした中、弘文天皇が天智天皇の墳墓造営の人夫を武装させ、挙兵準備をしているとの情報を得た大海人皇子が逆に挙兵を決断。壬申の乱が勃発します。

戦いは畿内を舞台にして六月二十二日から七月二十三日まで続きました。最終決戦は瀬田の戦い。敗走した弘文天皇は山崎で自害。大海人皇子側が勝利しました。

天武天皇

六七三年、大海人皇子は天武天皇として即位。天智天皇の遺志を継ぎ、官僚制の整備と軍事力の強化に取組み、中央集権国家の形成に注力します。
国内的には天皇=大王(おおきみ)と豪族・貴族の関係を定めるために古事記を、対外的には倭国の正統性を示すために日本書記の編纂を命じます。

六八一年、律令の編纂も命じ、七〇二年の大宝律令につながります。

大王と呼ばれていた統治者を天皇(てんのう)と呼びかえ、定着させたのも天武天皇と言われています。

昨年十月号でお伝えしたように、文献に天皇の呼称が初めて出てくるのは六〇八年の隋の煬帝(ようだい)に献じた国書。以来、七十年余を経て、ようやく天皇号が定着します。

六八六年、天武天皇が崩御すると鵜野皇后が持統天皇として即位。

六九七年、持統天皇が崩御すると、孫の軽皇子(かるのみこ)が文武天皇として即位。

七〇一年(大宝元年)、文武天皇が派遣した遣唐使、粟田真人(あわたのまひと)が唐に対して初めて日本という国号を用います。

日本は唐に冊封されることなく、独自の律令制度、位階制度を持つ独立国家としての立場を明確にしました。

役行者(えんのぎょうじゃ)

こうして日本の国家体制が整っていく過程で、国家仏教となった日本の仏教も独自の変化を遂げます。

天武・持統・文武天皇の頃に、都の貴族や僧尼たちの耳目を集めていたのが役行者(えんのぎょうしゃ)。来月は役行者についてお伝えします。乞ご期待。