【第119号】飛鳥・奈良時代の仏教5(白村江(はんそんこう=はくすきえ)の戦い)

皆さん、こんにちは。最澄・空海に至る飛鳥・奈良時代の仏教がテーマの今年のかわら版。今月は白村江(はくそんこう=はくすきのえ)の戦いについてお伝えします。

任那の調

長く倭国の朝鮮半島での拠点であった任那(みまな)に対して、新羅や百済が影響力を強めていたことから、大化改新(六四五年)直後、倭国は両国に任那の調(税金)を要求。

六四六年、国博士(くにはかせ)の高向玄理(たかむこのくろまろ)が新羅と交渉し、「質」を差し出すことを条件に「調」を廃止。

「質」は人質という意味ですが、実質的には外交官。つまり、外交関係を結ぶことで、倭国の任那支配は終焉を迎えました。

新羅から来た「質」は王族の金春秋(後の武烈王)。かつて、高句麗の捕虜になった経験もある内政・外交に精通した朝鮮三国屈指の政治家でした。

百済滅亡

金春秋は倭国の人々に敬愛され、六四八年に帰国。次に唐に派遣され、唐の太宗にも厚遇されます。

唐から帰国後、服制や年号を唐式に改め、唐の属国となる道を選択。当時の東アジアの国際情勢を踏まえ、現実的な選択をしたと言えます。

しかし、金春秋の選択はその後の朝鮮三国と倭国の歴史に大きな影響を与えます。

六五五年、高句麗・百済連合軍が新羅に侵攻。新羅から救援を求められた唐は高句麗に出兵。攻防は一進一退。

六五九年、百済の新羅に対する攻勢が強まる中、唐の高宗は百済制圧を決断。六六〇年、水陸十三万人の大軍で百済を攻め、百済は滅亡しました。

唐軍が高句麗に転戦すると、百済の遺将は百済再興を企図。倭国に援軍派遣と餘豊璋(よほうしょう)送還を求めます。

餘豊璋は三十年前に倭国に「質」として送られた百済王子。再興の象徴として担ぐためです。

白村江の戦い

斉明天皇は、六六一年、中大兄皇子、その弟の大海人皇子(おおあまのみこ)に援軍を編成させ、餘豊璋の百済衛送を決断。しかし、援軍出発直前に崩御し、その後は中大兄皇子が事実上の天皇として指揮をとります。

六六二年、餘豊璋が国王に就くと百済復興軍は勢いづき、唐・新羅連合軍と激戦が続きます。

しかし、百済復興軍が新旧勢力間の内紛で乱れると、唐・新羅連合軍は錦江を下って一気に勝負に出ました。

六六三年八月、錦江河口の白村江で唐・新羅連合軍と百済・倭国連合軍が対峙。唐と倭の水軍同士の決戦となり、倭軍は大敗。倭軍は朝鮮南部に敗走し、亡命を希望する多くの百済人とともに帰国しました。

百済滅亡と唐軍の力を目の当たりにした倭国は、六六四年、対馬・壱岐・筑紫に防人(さきもり)と烽(とぶひ)を設置。太宰府防衛のために多くの山城を築き、唐の襲来に備えました。

白村江の戦いを境に倭国は朝鮮半島への影響力を喪失。また、百済人大量亡命は、古代最後で最大の渡来人の倭国への集団移住。その後の倭国の仏教や内政に大きな影響を与えました。

壬申の乱

六六七年、中大兄皇子は大津遷都を行い、六六八年、天智天皇として即位。同年、唐・新羅連合軍は高句麗も滅亡させました。

倭国は唐の襲来を警戒しつつ、中央集権国家の構築に向けて最後の争乱に向かいます。来月は六七二年の壬申の乱についてお伝えします。乞ご期待。