【第118号】飛鳥・奈良時代の仏教4(乙巳の変と大化の改新)

皆さん、こんにちは。最澄・空海に至る飛鳥・奈良時代の仏教がテーマの今年のかわら版。今月は乙巳の変と大化改新についてです。

乙巳(いつし)の変

朝鮮三国(高句麗・新羅・百済)の動乱(先月号参照)と時を同じくして、倭国でも政変が起きます。

蘇我入鹿の専横に業を煮やした中臣鎌足(なかとみのかまたり)は物部氏系の豪族。

中大兄皇子(なかのおおえのみこ)や入鹿を嫌っていた蘇我氏分家の石川山田麻呂らと結託して入鹿暗殺を計画。

六四五年(乙巳)六月、飛鳥の板蓋宮(いたぶききゅう)で催された朝鮮三国朝貢の儀。

中大兄皇子は皇極天皇の面前で入鹿を襲撃。詰問する天皇に対して、「入鹿は皇族を滅ぼして自ら皇位に就く魂胆」との嫌疑を告げ、入鹿を斬殺。

入鹿斬殺の報を聞いた父の蝦夷(えみし)も屋敷に火を放って自害。蘇我氏本家は滅亡しました。

日本書紀の記述に基づいていますが、中臣鎌足と中大兄皇子らが倭国の秩序回復と朝鮮動乱に対処するために変革が必要と考えた末の決起と言われています。

大化の改新

変の翌日、皇極天皇は退位。弟の孝徳天皇が即位。歴史上初めての生前譲位です。また、初めて元号が定められ、大化(たいか)となりました。

六四六年、孝徳天皇によって、土地国有化、行政組織・戸籍・租税制度整備の四つを柱とする「改新の詔(みことのり)」が発せられました。

大臣も左大臣・右大臣に分けられ、官僚制が整えられます。

倭国仏教の大転換点となる「仏法興隆の詔」も発布。

その内容は、五三八年の仏教公伝以来、蘇我稲目、馬子が奉仏してきたことを称えつつ、今後は天皇がその役目を引き継ぐと宣言するものです。

氏族仏教から発展し、蘇我氏が支えてきた倭国仏教。中臣鎌足と中大兄皇子は、蘇我氏を排除し、天皇が支える国家仏教を目指しました。

十師(じつし)

「仏教興隆の詔」では、仏教の監督指導僧として、沙門狛大法師・福亮・恵雲・常安・霊運・恵至・僧旻・道登・恵麟・恵妙を十師に任命。中国生まれの福亮以外は全員が隋・唐に留学した倭人僧。倭国仏教は、朝鮮僧に頼っていた時代から進化しつつありました。

天皇や大臣の助言役として国博士(くにはかせ)が設けられ、留学帰りの倭人僧、僧旻と高向玄理(たかむこのくろまろ)が就任。一流の知識人として、多くの僧が活躍し始めました。

国の体制が整備される一方で、権力闘争は続きます。

権力を掌握した中臣鎌足と中大兄皇子は、古人大兄皇子、石川山田麻呂などの政敵を次々と誅殺し、難波遷都を強行。また、左大臣阿倍内麻呂の怪死、中大兄皇子邸の出火など、不吉なことが続いたことから、元号を白雉(はくち)に改元。

六五三年、中大兄皇子は大和遷都を画策。孝徳天皇が反対したため、中大兄皇子は先帝(皇極天皇)や孝徳天皇の皇后とともに大和に下向します。
難波に残された孝徳天皇はやがて崩御し、先帝が再び斉明天皇として即位。史上初の重祚(ちょうそ)です。

孝徳天皇の子である有馬皇子(ありまのみこ)は身の危険を察して狂人を装ったものの、謀反の嫌疑で捕縛され、十九歳で命を落としました。

白村江の戦いと壬申の乱

倭国内外の動乱、政変はまだ続きます。来月は六六〇年の白村江(はくそんこう=はくすきのえ)の戦いと六七二年の壬申の乱についてお伝えします。乞ご期待。