【第117号】飛鳥・奈良時代の仏教3(聖徳太子一族の滅亡)

皆さん、こんにちは。最澄・空海に至る飛鳥・奈良時代の仏教がテーマの今年のかわら版。今月は聖徳太子一族の滅亡についてお伝えします。

蘇我氏の専横

六三九年に百済大寺を創建した舒明天皇が六四一年に崩御。

再び山背大兄王(聖徳太子の息子)が皇位継承候補となりました。

すると、蘇我蝦夷(えみし)はすかさず皇后の宝皇女(たからひめみこ)を皇極天皇として即位させました(六四二年)。

いずれ、蘇我氏の傀儡として古人大兄王(ふるひとのおおえのおう)に皇位を継がせる伏線です。

また、大勢の民を動員して蘇我氏の墳墓を造営させ、天皇陵と同じように「みささぎ」と呼ばせるなど、蘇我氏の専横ぶりが際立ちます。

その実権が蝦夷の息子入鹿(いるか)に移るにつれ、蘇我氏の専横ぶりに批判が集まるようになります。

聖徳太子一族の滅亡

蝦夷が病床につくと入鹿は一段と先鋭化。根強い皇位継承期待がある山背大兄王の暗殺を画策します。

六四三年、巨勢徳太(こせのとこだ)に山背大兄王の暗殺を指示。山背大兄王の斑鳩宮は焼き討ちに遭い炎上。

何とか難を逃れた山背大兄王でしたが、自分の存在が皇位継承争いと無益な戦いにつながることを憂い、斑鳩寺(現在の法隆寺)の五重塔で、妻子と一族とともに捨身して果てたと言われています。

ここに、聖徳太子の一族は滅亡しました。「世間虚仮(せけんこけ)唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」という太子の遺言が偲ばれます。

倭人僧と遣唐使

六二一年の聖徳太子没後、倭国の内政は太子一族と蘇我氏の対立構図が続いていましたが、六四三年の太子一族滅亡で節目を迎えました。

しかし、倭国が内紛に明け暮れる間、唐や朝鮮三国を巡る国際情勢は大きく動いていました。

六一八年、隋が滅びて唐が成立。百済・新羅・高句麗の朝鮮三国は唐の冊封を受け、臣下となります。

六二三年、かつて遣隋使船に乗って留学した倭人僧恵日(えにち)が新羅経由で唐から帰国。

恵日は推古天皇に対し、倭人僧の唐からの召喚と唐との国交開始を進言。当時の国際情勢を踏まえた的確な進言でした。

舒明天皇の代になった六三〇年、第一回遣唐使が派遣されます。

しかし、唐からの冊封は受けませんでした。かつて太子が隋に対して「朝貢すれども冊封されず」とした外交姿勢を継承したと言えます。

隋と同様に、唐も朝鮮三国を制するために、その背後に位置する倭国との関係に配慮したようです。

朝鮮三国の争乱

六四一年、百済で政変が発生。即位した義慈王は六四二年に新羅へ侵攻。

新羅は金春秋を高句麗に派遣して援軍を要請。高句麗は領土割譲を新羅に要求したために両国は対立。人質になった金春秋は脱走して帰国。

同年、高句麗でも泉蓋蘇文が国王や大臣百人余を惨殺。百済と結んで新羅に侵攻。

臣下である朝鮮三国の争乱に激怒した唐の太宗は、六四五年、高句麗征討に出発。隋麗戦争の再現です。

同年五月、太宗は国境線の遼河(りょうが)の橋を壊して退路を断ち、兵士たちに不退転の決意を示して高句麗に攻め込みます。

乙巳の変と大化の改新

国際情勢が緊迫する中、翌六月、倭国では乙巳(いつし)の変が起き、大化の改新に至ります。来月は、その背景と経緯をお伝えします。乞ご期待。