【第116号】飛鳥・奈良時代の仏教2(留学僧)

皆さん、こんにちは。最澄・空海に至る飛鳥・奈良時代の仏教についてお伝えしている今年のかわら版。今月のテーマは聖徳太子没後の倭国仏教を支えた留学僧。隋・唐から続々と帰国します。

朝鮮僧

聖徳太子の時代以降、遣隋使、遣唐使として多くの倭人僧が大陸に渡る一方、三国(百済・新羅・高句麗)時代の朝鮮半島からも多くの朝鮮僧が来日していました。

推古天皇の仏教改革(六二四年)によって僧正に任じられた観勒は百済僧。観勒を継いだ慧灌は高句麗僧。

慧灌は唐で三論宗開祖の吉蔵(きちぞう)に師事。そのため、後に南都六宗の中核となる三論教学を倭国に伝える役割も果たしました。

論教学は聖徳太子の時代にも、太子の師であった慧慈や慧聡によって倭国に伝わっていましたが、浸透しませんでした。
その理由は、それを理解できる倭人僧がいなかったからです。

やがて、遣隋使、遣唐使として大陸に派遣された倭人僧が長い留学期間を終えて帰国。彼らは、大陸や朝鮮半島の宗教を理解し、倭国に普及させることに貢献します。

舒明天皇と山背大兄王

六二一年に太子、六二六年に蘇我馬子が相次いで没し、六二八年には推古天皇が崩御。倭国初の三十六年間の女帝時代が終焉するとともに、三人による治世の均衡が崩れ、その後の混乱が始まります。

皇位継承候補となったのは、田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の息子)。

馬子を継いだ蝦夷(えみし)は田村皇子を支持。

蝦夷は、山背大兄王を支持していた有力者の境部摩理勢(さかいべまりせ)を自害に追い込み、田村皇子を舒明天皇として即位させることに成功

これが、後の乙巳(いつし)の変、大化改新(六四五年)につながります。

倭人僧と如法化

推古天皇の晩年、及び舒明天皇の時代になると、倭人僧が続々と大陸から帰国。六二三年の恵斉、恵光、医(くすし)恵日、福因、智洗爾(ちせんに)、六三二年の僧旻(そうみん)、霊雲、六四〇年の恵穏、恵雲、六四一年の請安などです。

大陸や朝鮮半島の文化、宗教としての輸入仏教であった倭国仏教は、留学期間を終えた倭人僧の帰国によって、仏教の教えを本格的に倭国に普及させる教学仏教の時代に入ります。

倭国仏教の如法化(にょほうか)=仏法の教えを正しく伝える時代に入ったと評価されています。

百済大寺(くだらだいじ)

六三九年、舒明天皇が壮大な規模の百済大寺を創建。九重塔も建立。

倭国古来の祭祀を司る天皇が自ら仏教寺院を創建したことは、倭国仏教が有力豪族の氏族仏教から国家仏教へ転化する契機となりました。

こうした背景には、隋や唐の国家仏教を垣間見てきた留学僧たちの助言があったと言われています。

現在の奈良県桜井市の吉備池廃寺(きびいけはいじ)が百済大寺の遺構です。

聖徳太子一族の滅亡

独自の発展を始めた倭国仏教。そうした中で聖徳太子の息子である山背大兄王が非業の死を遂げます。来月は、六四三年、聖徳太子一族の滅亡についてお伝えします。