【第115号】飛鳥・奈良時代の仏教

あけましておめでとうございます。足かけ十一年目に入ったかわら版。今年もどうぞよろしくお願いします。今年のテーマは、最澄・空海に至る飛鳥・奈良時代の仏教です。

輸入仏教、教学仏教、実践仏教

聖徳太子が亡くなったのは六二一年、最澄誕生は七六六年、空海誕生は七七四年。この間の約百五十年間は飛鳥・奈良時代です。

飛鳥時代は、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(五九三年)から、持統天皇による藤原京遷都(六九四年)までの頃と定義されています。

その後、元明天皇による平城京遷都(七一〇年)を経て、桓武天皇による平安京遷都(七九四年)までの頃が奈良時代と言われています。

倭への仏教公伝は五三八年。その後、飛鳥時代までは言わば輸入仏教の時代。仏教は異国の文化・宗教でした。

しかし、奈良時代には仏教の内容を理解しようとする動きが広がり、教学仏教の時代に入りました。

そして、最澄と空海による平安時代初期の仏教。教学だけでは足らざる点を補う実践仏教です。

奈良仏教の三巨人

大化改新(六四五年)を契機に、仏教の主導的立場は蘇我氏から天皇家に引き継がれました。

飛鳥時代と奈良時代の境目に当たる七〇一年(大宝元年)には、文武天皇が大宝律令を定め、国家としての体裁をさらに整えました。

そして、遣唐使として派遣された粟田真人が唐に対して初めて「日本」という国号を用い、倭国から日本国へと変わった年に当たります。

こうした中で、日本仏教は初期の氏族仏教から国家仏教へと変遷していきます。

聖徳太子没後、最澄・空海に至る過程で日本仏教を支えたのは、続々と隋・唐への留学から帰国した倭人僧。その後は、役行者(えんのぎょうじゃ)、行基、鑑真の三人です。

今年のかわら版は、聖徳太子没後の動きと、奈良仏教の三巨人についてお伝えします。

推古天皇の仏教改革

聖徳太子の晩年、有力豪族の氏寺や大勢の僧尼が誕生し、仏教は隆盛しました。日本書記によれば、四十六か寺、僧尼一三八五人に及んでいたと記されています。

その一方、推古天皇は、教義の理解も十分でない僧尼の言動に問題を感じていたようです。

聖徳太子没後三年の六二四年、僧による傷害事件が発生。激怒した推古天皇は仏教界を粛正しようとします。

観勒(かんろく)の弁明によって粛正は免れたものの、推古天皇は仏教改革を断行。同年に関する日本書記は次のように記しています。

「道人も法を犯す。何を以てか俗人をおしえむ。故(ゆえ)、僧正・僧都を任(め)して僧尼を検校(かんが)うべし」(四月十三日条)。

「観勒を以て僧正、鞍部徳積を以て僧都、阿曇連(あずみのむらじ)を以て法頭(ほうず)とす」(同十七日条)。

「寺、僧尼を校(かんが)えて、つぶさにその寺の造れる縁、僧尼の入道(おこな)う縁、度せる年月日を録す」(同九月三日条)。

つまり、寺と僧尼の管理・統制と現状調査を命じたと言えます。

留学僧の活躍

その二年後の六二六年、蘇我馬子が没します。倭国仏教を牽引してきた聖徳太子と蘇我馬子の逝去、推古天皇の改革により、単に寺を創建し、僧尼を増やす時代は節目を迎えます。

来月はその後の倭国仏教を支えた留学僧についてお伝えします。随・唐への留学から続々と帰国します。乞ご期待。