【第114号】日本仏教と聖徳太子の生涯12(太子の最期と太子伝説)

皆さん、こんにちは。日本仏教と聖徳太子の生涯がテーマの今年のかわら版。最終回の今月は太子の最期と太子伝説についてです。

念禅法師

六一五年(太子四十四歳)、仏教の師である慧慈が高句麗に帰国。教えを請う師を失い、太子は寂寥の思いで晩年を過ごしました。

六一八年(同四十七歳)、太子は死期が近いことを悟り、妃の膳大郎女(かしわべのおおいらつめ)に六代前までの前世を語りました。

初めは中国晋朝の時代に卑賤の家に生まれ、衡山で三十年の修行をした後、宋代以降に四度輪廻して、六回目は念禅法師(南獄慧思大師)。いずれも衡山で修行しています。

六〇七年(同三十六歳)、小野妹子を遣隋使として派遣した際、妹子に衡山に行って三人の老師に会うよう命じました。

妹子が三老師を訪ねたところ、「念禅法師はお元気ですか」と尋ねられたそうです。

国記・天皇記・本記

六一九年(同四十八歳)、推古天皇は太子が着飾った姿の夢を見ました。そのことを太子に告げると、太子曰く「帝のもとを離れる知らせです」。その年、太子は大病を患います。

六二〇年(同四十九歳)の三月と九月、太子は斑鳩宮で別れの大宴会を催します。同年十二月、太子の母、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が崩御。また、天に雉(きじ)の尾のような赤気(せっき)が出現。彗星と伝えられています。

百済の高僧が「太子没後七年目に兵乱があり、一族が滅する兆し」と予言すると、太子は黙って頷きました。

太子は倭国の安泰を念じ、国記(くにつふみ)、天皇記(すめらみことのふみ)とともに、諸豪族の本記(もとつふみ)の編纂を命じました。これらは、後世の日本書紀や古事記のベースとなります。

世間虚仮、唯仏是真

六二一年(同五十歳)二月二十一日、太子は妃に沐浴を命じ、自らも沐浴。太子は妃に「今宵遷化します。一緒においでなさい」と告げました。

翌二十二日、太子と妃は相次いで遷化したそうです。太子の遷化については、六二二年説、二月五日説などもあります。

晩年の太子の言葉として伝えられているのは「世間虚仮、唯仏是真(せけんこけ、ゆいぶつぜしん)」。曰く「世間は虚しく、仮にして、唯だ仏のみが真である」。

後世の「天寿国繍帳銘(てんじゅこくしゅうちょうめい)」の発願者、橘大女郎(たちばなのおおいらつめ)の回想として記されています。

太子伝説

その後、太子の予言書と言われる未来記が各地で発見されています。

有名なのは一〇五四年、法隆寺太子廟の横を多宝塔建立のために掘り下げた際に発見された石記文。

太子の転生譚も知られています。その後の仏教を継承した行基をはじめ、空海、最澄も太子の生まれ変わりと言われました。

聖武天皇、後醍醐天皇、藤原道長など、後世の権力者が自らを太子の生まれ変わりと称する例も現れました。

こうした六代輪廻、未来記、転生譚などは、太子伝説として伝承されています。

飛鳥・奈良時代の日本仏教

太子が礎を築いた倭国仏教。その後、最澄が誕生するのは七六六年、空海が誕生するのは七七四年。太子没後、約百五十年後です。

来年は、最澄・空海に至る飛鳥・奈良時代の日本仏教をテーマにお伝えします。それでは、良い年をお迎えください。