【第113号】日本仏教と聖徳太子の生涯11(三経講経と三経義疏)

皆さん、こんにちは。日本仏教と聖徳太子の生涯がテーマの今年のかわら版。今月は聖徳太子の仏教を語る時に欠かせない三経講経(こうきょう)と三経義疏(ぎしょ)についてです。

三経講経

推古天皇と摂政皇太子(厩戸王子)による治世が安定してきた六〇五年(太子三十四歳)、天皇は飛鳥大仏を建立。一方、太子は完成した斑鳩宮に移りました。この年には、盂蘭盆会(うらぼんえ)も始まりました。

六〇六年(同三十五歳)、天皇は太子に講経を行うことを求めます。つまり、仏教(経)の講義です。

最初に説いたのは勝鬘経(しょうまんぎょう)、次は法華経です。

このふたつは女性救済を教えの主題に含む経です。天皇が女性であり、尼僧の数が増えていたことに配慮した太子の選択と言われています。

後年、在家仏教の大切さを説く維摩経も講義しました。この三つを総称して三経講経と言います。

三経義疏

太子は、講経と並行して解説書の編纂も行いました。

勝鬘経義疏は六一一年(同四十歳)、維摩経義疏は六一三年(同四十二歳)、法華経義疏は六一五年(同四十四歳)に完成しました。

現在、勝鬘経義疏と維摩経義疏は鎌倉時代の写本(刊本)が残されているだけですが、法華経義疏については太子直筆の草稿本が皇室御物(ぎょぶつ)として引き継がれているそうです。

百済と高句麗

初期の仏教経典や法具の多くは、蘇我氏とつながりの深い百済から持ち込まれていました。

慧聡、観勒など、百済は積極的に高僧を派遣し、倭国との関係強化に腐心。
やがて、高句麗も倭国仏教に影響を与えようとします。朝鮮半島での政治的力学を意識して倭国との関係づくりを図るためです。
倭国初の出家者である善信尼の戒師を務めた恵便、太子の師となった慧慈も高句麗僧。
六一〇年(同三十九歳)には儒教や工芸、寺院建築に秀でた曇徴、法定が来朝するなど、高句麗は百済を凌駕する勢いで倭国に高僧や仏師、寺大工等を送ってきました。

随の滅亡

太子の治世は、内政、外交のいずれにおいても、中国大陸での随の興亡、朝鮮半島の政治力学と密接に関係しています。

随の始祖、文帝(楊堅)を継いだ煬帝(ようだい)は、華北・江南を結ぶ大運河を建設したり、度重なる高句麗遠征(麗随戦争)を行い、民衆は重税や戦役に苦しみました。

六一三年(同四十二歳)、楊玄感の反乱を契機に国は乱れ、六一八年(同四十七歳)、煬帝は近衛兵に暗殺されます。

重臣の李淵は煬帝の孫の楊侑を幼帝として擁立。楊侑から禅譲を受けて自ら帝位につき、唐を立国。李淵は唐の高祖となり、隋は滅亡しました。

その年の春、太子は隋の滅亡を予知したと伝えられています。中国大陸や朝鮮半島の情報に通じた太子が、情勢を把握していた証でしょう。

「同年秋、太子は自分の最後が近いことを悟り、妃の膳太郎女(かしわでのおおいつらめ)に六代前までの輪廻(りんね)を語りました。

太子伝説

太子には奇瑞(きずい)伝説の類が数多く伝えられています。来月は太子の最期と太子伝説についてお伝えします。乞ご期待。