皆さん、こんにちは。日本仏教と聖徳太子の生涯がテーマの今年のかわら版。今月は遣隋使が持参した国書に記された日出ずる処の天子の背景についてです。
小野妹子
六〇三年(太子三十二歳)の官位十二階、六〇四年(同三十三歳)の十七カ条憲法によって、国家としての体制を整えた太子。
六〇七年(同三十六歳)、小野妹子(おののいもこ)を遣隋使として派遣します。
日本書記には妹子が最初の遣隋使と記されていますが、隋書によれば、六〇〇年(同二十九歳)にも派遣されていたことは先月号でお伝えしました。
しかし、国家としての体制整備が不十分であったため、隋の文帝(楊堅)に正式な外交使節として認められなかったようです。このため、日本書記はその事実を記しませんでした。
そして、体制を整えた後の遣隋使である妹子には、五番目の官位である大礼の冠を与えて派遣しました。
日出ずる処の天子
隋書には、妹子が持参した国書を見て煬帝(ようだい)が激怒したと記されています。
その理由は、国書の書き出しが「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや云々」となっていたからです。
倭国を「日出ずる処」、天皇を「天子」と記述。「天子」は冊封体制の下では隋の皇帝を示す言葉です。
煬帝は「蛮夷の書、復(ま)た以て聞(ぶん)する勿(なか)れ」(こんな無礼な書は二度と見せるな)と臣下に命じたと記されています。
しかし、妹子は返書を渡されたうえ、煬帝の使者裴世清を伴って帰国します。
当時の隋は高句麗と戦争状態(麗隋戦争)にあり、高句麗の背後に位置する倭国との同盟関係を模索し、無礼を不問に伏したと言われています。
皇帝と天皇
日本書記は六〇七年の国書のことは載せていません。
一方、翌六〇八年(同三十七歳)、妹子が再び遣隋使として派遣された際の国書の記述はあり、その書き出しは「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す」であったと記しています。
この時、初めて天皇号が使われたようです。それまでの国書では、倭国の「大王」と記すのが通例。六〇七年の国書で「天子」と記して問題になったことから、今度は倭国の「天皇」と隋の「皇帝」を使い分けました。
六〇七年に「天子」と記したのは倭国と隋は対等であることを示したもの。一方、六〇八年の「天皇」は隋に配慮して使い分けたもの。
隋に朝貢はするものの、臣下となって冊封されることを断固として拒んだ太子の戦略です。
高句麗と戦争状態にあった隋が、倭国の無礼を黙認したことは前述のとおり。当時の国際情勢や地政学的立場を踏まえた太子の巧みな外交手腕と言えます。
三経講経と三経義疏
六〇五年(同三四歳)、太子は推古天皇の前で三つの経の講義を行いました。有名な三経講経(こうきょう)です。その後、晩年にかけては解説書である三経義疏(ぎしょ)を編纂。
来月は、太子の仏教を語る際に欠かせない講経と義疏の話しをお伝えします。乞ご期待。