【第111号】日本仏教と聖徳太子の生涯9(遣隋使、冠位十二階、十七カ条憲法)

皆さん、こんにちは。日本仏教と聖徳太子の生涯がテーマの今年のかわら版。今月は聖徳太子の偉業である遣隋使、冠位十二階、十七カ条憲法についてです。

日本書記と隋書倭国伝

朝鮮半島や大陸の国際情勢に対応しつつ、仏教や律令制度の普及に腐心した聖徳太子(厩戸皇子)。両者は表裏一体の課題でした。

中国統一を成し遂げた随。その随に朝貢する朝鮮半島の高句麗・新羅・百済の三国。いずれも仏教が普及し、律令制度を備えた国々でした。

摂政に就いた七年後の六〇〇年(太子二十九歳)、太子は初めて遣隋使を派遣。

雄略天皇(宋書では武)時代の四七八年を最後に朝貢を中断し、中国の冊封体制から離脱した倭国。実に、約一世紀ぶりの使節派遣です。

ところが、日本書記には六〇〇年の遣隋使の記述がありません。

一方、隋書倭国伝には「倭王、使を遣わして闕(けつ=みかど)に詣(いた)らしむ」と記しています。

約一世紀ぶりに中国と接した倭国の使者。仏教や律令制度など隋の文明の高さに驚愕。服装も異なり、官位を示す冠もつけていない使者は隋の文帝(楊堅)に相手にされませんでした。

任那再興

では、倭国が約一世紀ぶりに使節を派遣したのはなぜでしょうか。

五八九年(同十八歳)、隋が中国を統一。高句麗と百済はただちに隋の冊封を受け入れ、臣下となりました。

五九一年(同二十歳)、崇峻天皇は朝鮮半島の倭国の拠点、任那(みまな)再興を狙って新羅出兵の詔(みことのり)を発出。

出兵に反対した厩戸皇子と崇峻天皇の関係が微妙になったことは七月号でお伝えしました。

厩戸皇子が摂政に就いた翌五九四年(同二十三歳)、新羅が隋の冊封を受け入れたため、任那を巡って倭国は隋との外交関係構築を迫られたと言えます。

その結果の六〇〇年の遣隋使。しかし、倭国の思惑どおりには進みませんでした。

★ 冠位十二階と一七カ条憲法

六〇三年(同三十二歳)、太子は冠位十二階を定めます。隋や朝鮮三国を念頭に置いた改革です。

中国の五行思想に基づく仁・礼・信・義・智とそれらを総括する徳のそれぞれに大小を設けて十二階とし、群臣に授与。太子は門閥の弊害を除き、広く人材を登用しようとしました。

同年、官僚が執務する建物を整え、天皇が聴政を行う広場を有する中国風の小墾田宮を造営しました。

六〇四年(同三十三歳)、理想の国家を築くための道徳的規範として十七カ条憲法を定めます。

神祇崇拝の文言は含まれず、「篤く三宝を敬へ」とする仏教の薦めに加え、「和を以て貴しと為し」「我必ずしも聖(ひじり)にあらず、彼必ずしも愚かにあらず、共にこれ凡夫のみ」といった仏教の教えを基とする考えが示されました。

国際情勢に対応しつつ、理想国家の建設に取り組む太子に対し、群臣の間に崇敬の念が広がっていきました。

日出ずる処の天子

体制を整えた後の六〇七年(同三十六歳)、小野妹子(おののいもこ)に五番目の官位である大礼の冠を与えて遣隋使として派遣。

隋書には、妹子が持参した国書を見て煬帝(ようだい)が激怒したと記されています。

その理由は、倭国の天皇を日出ずる処の天子、随の皇帝を日没する処の天子と記したからです。

来月は、日出ずる処の天子と記した太子の意図をお伝えします。乞ご期待。