【第110号】日本仏教と聖徳太子の生涯8(慧慈と覚哿)

皆さん、こんにちは。日本仏教と聖徳太子の生涯がテーマの今年のかわら版。今月は聖徳太子の師である慧慈と覚哿についてです。

高句麗僧・慧慈(えじ)

五九四年、太子の下で三宝(仏・法・僧)興隆の詔(みことのり)が発せられ、倭国は独自の仏教国として歩み始めます。

五九五年、高句麗から慧慈という高僧が来朝。

慧慈が太子と会って問答(もんどう)したところ、一を聞いて十を知る太子の理解力に「これはまさしく真人(ひじり、しんじん)」と感嘆。以来、慧慈と太子は師弟関係となりました。

真人とは道教の体得者を意味する呼称。当時の倭国に対する大陸や朝鮮半島の認識の一端が垣間見えます。

謎の覚哿(かくか)

日本書記が次のように記しています。曰く「内教(仏教)を高句麗僧慧慈に習ひ、外典(儒教)を博士覚哿に学ぶ」。太子の師についての記述です。

慧慈来朝に先立つ五九三年、太子は覚哿に師事したとされています。

百済系渡来人と言われる覚哿は日本書記以外の文献には登場せず、謎に包まれています。

当時末期を迎えつつあったササン朝ペルシャから長安に来て、後に朝鮮半島を経由して倭国に渡ったペルシャ人という説もあります。

隋による中国統一

この頃、大陸では隋が隆盛を極めていました。

五八一年(太子九歳)、隋が建国され文帝(楊堅)が即位。文帝の治世は六〇四年(同三十二歳)まで続きます。

五八九年(同十七歳)、隋は陳を滅ぼして中国を統一。黄巾の乱(一八四年)以来、実に四〇五年ぶりに中国の分裂時代が終わりました。

その後、隋は四度にわたって高句麗と交戦(麗隋戦争)。

隋による中国統一や朝鮮半島侵攻は、当時、東アジアの新興国であった倭国にとっては一大事。

隋が仏教を篤く保護していたことや、律令制を完備した先進国であったことは、その後の太子の治世に影響を与えます。

その随との関係構築のため、太子は遣隋使を派遣します。六〇〇年(同二十八歳)が第一回。六〇七年(同三十五歳)には小野妹子が派遣されます。

三人の知恵袋

五世紀から六世紀の倭国において、物部氏、蘇我氏と並ぶ有力豪族のひとつであった秦氏は新羅系渡来人。

秦河勝(はたのかわかつ)は太子の側近。五八七年の物部守屋との決戦の際、迹見赤檮(とみのいちい)に命じて守屋を射抜いた後、その首を斬り落としたのも秦河勝です(先月号参照)。

当時の朝鮮半島は、高句麗、百済、新羅の三国時代。いずれも隋との外交関係に腐心していました。

東アジアの新興国・倭国の指導者となった太子にとって、師となった高句麗の慧慈、百済系の覚哿、そして側近の新羅系の秦河勝は、朝鮮半島や隋の情報をもたらし、対応を相談できる貴重な知恵袋(ブレーン)だったと言われています。

遣隋使、冠位十二階、十七カ条憲法

仏教国の建設に取り組みつつ、朝鮮半島や大陸の国際情勢にも対応することが求められた太子の治世。

来月は、六〇〇年の遣隋使派遣、そして六〇三年の冠位十二階と六〇四年の十七カ条憲法の制定に至る背景をお伝えします。乞ご期待