【第109号】日本仏教と聖徳太子の生涯7(摂政皇太子)

皆さん、こんにちは。日本仏教と聖徳太子の生涯がテーマの今年のかわら版。今月は聖徳太子が摂政皇太子(せっしょうひつぎのみこ)に任じられる経緯についてです。

崇峻天皇

五八七年八月、厩戸皇子(うまやどのおうじ)の活躍によって排仏派・物部守屋は討伐され、泊瀬部皇子(はつせべのみこ)が崇峻天皇として即位。厩戸皇子の叔父に当たります。

崇仏派・蘇我馬子は崇峻天皇の擁立に積極的ではありませんでしたが、炊屋姫(かしきやひめ)の推挙によって決まったと言われています。

炊屋姫は後の推古天皇。先々代の敏達天皇の妻であり、先代の用明天皇の姉でもあり、強い影響力を持っていました。厩戸皇子の伯母にも当たります。

崇峻天皇は、「神通の持ち主」との評判が立っていた甥の厩戸皇子を呼び、自分の顔相を占わせました。

厩戸皇子は「過去世からの因縁で短命の相あり。三宝(仏法僧)を敬い災禍を遠ざけるべし」と進言。しかし、崇峻天皇に崇仏の思いは稀薄でした。

馬の首

五八八年、馬子は飛鳥寺(法興寺)の建立に着手。

倭国初の出家者である善信尼らを百済に派遣。大陸や朝鮮半島の最新の仏教も学び、倭国の仏教は隆盛し始めます。

大臣(おおおみ)である馬子の権力が強まるにつれ、相対的に崇峻天皇の権力は後退。

五九一年、崇峻天皇は朝鮮半島の倭国の拠点、任那(みまな)再興を狙って新羅出兵の詔(みことのり)を発出。

「成算なし」として出兵に反対した厩戸皇子との関係も微妙になります。

同年十月、献上された猪を眺め、崇峻天皇が「猪の首を斬り落とす如く、朕が憎む馬の首も斬り落としてくれよう」と呟きました。

それを群臣から聞いた厩戸皇子。崇峻天皇に対して、「仏教の六波羅蜜(ろくはらみつ)に忍辱(にんにく)の教えあり。今必要なのは忍辱なり」と進言。群臣には崇峻天皇の発言を他言無用と命じました。

しかし、群臣の中に密告する者が出て、馬子の知るところとなります。

推古天皇

同年十一月、馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に崇峻天皇の暗殺を指示。東漢直駒は物部との戦いでも活躍した手練れ(てだれ)者。

崇峻天皇は就寝中に襲われ、あえなく落命。殯(もがり)の儀式も省かれ、翌日には埋葬されるという異例の対応となりました。

同年十二月、炊屋姫が慌ただしく推古天皇として即位。

日本書記は推古天皇を姿色端麗(ししょくたんれい)進止軌制(しんしきせい)=「容姿端麗で礼儀正しく節度がある」と表しています。

崇峻天皇暗殺のこともあり、馬子との関係について推古天皇の心中は穏やかではありません。そこで白羽の矢が当たったのが厩戸皇子。

厩戸皇子は推古天皇と馬子にとって共通の甥。仏教に長け、崇仏派の馬子とも良好な関係にあったことから、厩戸皇子を皇太子として迎え、さらに摂政にすることを考えました。

つまり、推古天皇は祭祀として儀式を司り、政治の実権は摂政(厩戸皇子)と大臣(蘇我馬子)に委ねるという役割分担です。

皇子は何度も固辞しましたが、仏教興隆のためと説得され、最終的に要請を受け入れました。

五九三年、二十二歳の厩戸皇子は摂政皇太子(ひつぎのみこ)となり、推古天皇は「万(よろず)の機(まつりごと)を以て悉く(ことごとく)に委ね」という詔を発しました。

慧慈(えじ)と覚哿(かくか)

太子の下で、五九四年、三宝興隆の詔(みことのり)が発せられ、倭国は独自の仏教国として歩み始めます。

来月は太子の師である慧慈(えじ)と覚哿(かくか)についてお伝えします。乞ご期待。