【第108号】日本仏教と聖徳太子の生涯6(聖徳太子の四天王信仰)

皆さん、こんにちは。日本仏教と聖徳太子の生涯がテーマの今年のかわら版。今月は聖徳太子の四天王信仰についてです。

用明天皇

五八五年、敏達天皇は蘇我馬子が私的に仏法を信仰することを許し、倭国に初めて正法(しょうぽう)が誕生しました。

同年八月、敏達天皇崩御を受けて即位したのは異母弟の橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ)。つまり、厩戸皇子(聖徳太子)の父である用明天皇です。

用明天皇は二年後に病に倒れ、快癒祈願のために仏教への信心を深め、帰依を願います。

臣下の私的信仰と違い、神祇の祭司長である天皇の仏教帰依は国の一大事。欽明天皇、敏達天皇、用明天皇の三代、約半世紀にわたる難問です。

用明天皇は臣下を病床に集め、「朕は三宝(仏法僧)に帰依したい。皆で是非を論ずべし」と命じます。

大連・物部氏と大臣・蘇我氏

排仏派の大連(おおむらじ)物部守屋は帰依に猛反対。

崇仏派の大臣(おおおみ)蘇我馬子は「天皇の御心(みこころ)に異を唱えてよいはずがない」と反対論を制し、九州から豊国法師(とよくにのほうし)を招き、快癒祈願をさせました。

大連は軍事、大臣は政治を補佐する立場。物部守屋と蘇我馬子の対立が決定的となる中、五八七年四月、用明天皇が崩御。

物部守屋は次期天皇候補者である穴稲部人皇子(あなほべのひとのみこ)を擁して河内に布陣。

蘇我馬子は用明天皇の息子である厩戸皇子を擁して大和に布陣。

同年六月、敏達天皇の皇后であり、用明天皇の妹であった炊屋姫(かしきやひめ=後の推古天皇)が、物部守屋、穴稲部人皇子の討伐を蘇我馬子に命じます。

しかし、物部氏は軍事が本職。蘇我氏は劣勢です。

若干十四歳の厩戸皇子は、自ら彫った四天王像を髪に括りつけ、「勝利の暁には必ず護世のために寺を建立します」と誓願して参戦しました。

難波四天王寺

同年八月、いよいよ決戦。物部守屋が「これは物部の守護、布都大明神(ふつのだいみょうじん)の矢」と唱えて矢を放つと厩戸皇子に命中。しかし、鎧に守られて皇子は無事でした。

続いて、厩戸皇子が迹見赤檮(とみのいちい)に命じて「これはこれ、四天王の矢」と唱えて矢を射させると、物部守屋の胸に命中。秦造河勝(はたのみやつこかわかつ)が守屋の首を斬り落として勝負は決しました。

四天王は仏教の守護神。東方を守る持国天(じこくてん)、西方を守る広目天(こうもくてん)、北方を守る多聞天(たもんてん)、南方を守る増長天(ぞうちょうてん)です。

厩戸皇子の深い仏教信仰の証(あかし)ですが、日本書記の編纂者による後世の創話という説もあります。

五九三年、厩戸皇子は誓願どおりに難波四天王寺を建立。

四天王寺縁起によれば、厩戸皇子は伽藍とともに、修行の場である敬田院、病人に薬を施す施薬院、病人を収容する療病院、身寄りのない年寄りのための悲田院を併設。その後の徳政の一端が垣間見えます。

摂政皇太子

用明天皇を継いだのは崇峻天皇。しかし、わずか五年で暗殺され、五九三年、推古天皇が即位。

来月は厩戸皇子が摂政皇太子(せっしょうひつぎのみこ)に任じられる経緯をお伝えします。乞ご期待。