皆さん、こんにちは。日本仏教と聖徳太子の生涯がテーマの今年のかわら版。今月は聖徳太子の誕生です。
阿弥陀如来と観音菩薩
聖徳太子の母は欽明天皇の娘、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。父は欽明天皇の息子、橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ)。父は後の用明天皇です。
聖徳太子の両親はともに欽明天皇の子供ですが、それぞれ母親が違います。聖徳太子にとって祖父が欽明天皇、父が用明天皇になります。
五七一年元旦、母は不思議な夢を見たと言い伝えられています。
金色の僧が現れ「救世の願あり、皇女の胎に宿る」と告げられたので「どなたか」と聞くと「西方の救世観音菩薩」。母が「仰せのままに」と答えると僧は口中に飛び込み、夢から覚めたとの伝説です。
五七二年元旦、母は宮中の厩戸の前で陣痛もなく出産。その子は厩戸皇子(うまやどのおうじ)と名づけられ、後世、母は阿弥陀如来の化身と言われるようになりました。
母方の実家は蘇我氏。当時の当主、蘇我馬子(太子の大伯父)の家で生まれたので厩戸皇子との説もあります。
太子伝説
聖徳太子には、奇瑞(きずい)、伝説の類がたくさんあります。
生まれた時は手に仏舎利を握り、二歳になると誰にも教えられないのに合掌して「南無仏」と唱えました。
五歳の時には、叔母に当たる豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が後の推古天皇になることを予言。
六歳になると、「私は漢土(もろこし)衡山(こうざん)で修行をしていた」と前世を述懐。漢土衡山は中国湖南省の聖山の名前です。
十一歳の時には、三十六人の童子の話を同時に聞いて、全て反復することができたと言われています。
十二歳の時、賢人として名高い日系百済人、日羅(にちら)が来朝。太子に会った日羅は、大陸で前世の太子に師事していたことに気づきました。
蘇我氏と物部氏の対立
五八四年、崇仏派の蘇我馬子が百済帰りの鹿深臣(かふかのおみ)から弥勒菩薩を贈られ、出家させた三人の尼(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)に祈らせました。先月号でお伝えしたように、倭国初の弥勒菩薩と出家者です。
太子も熱心に礼拝し、大伯父の馬子と一緒に、仏法を広めることを誓います。
その頃、馬子は病気がちであったうえ、国内に疫病が流行。排仏派の物部守屋が敏達天皇に「馬子の病、国内の疫病は他国神を祀った祟り」と進言。敏達天皇の詔(みことのり)を得た守屋は、仏塔を倒し、仏像を焼き、三人の尼を監禁して刑に処しました。
しかし、疫病は収まらず、天災に苛まれ、事態は悪化。民衆は崇仏派を支持します。
五八五年、太子は敏達天皇に仏法容認を奏上。遂に「馬子が私的に祈るなら許す」との勅許を得て、倭国に初めて正法(しょうぽう)が興ります。
もともとは有力者同士の権力闘争であった蘇我氏と物部氏の対立は、仏法を巡って決定的となりました。
四天王信仰
聖徳太子の仏教伝が日本書記に初めて具体的に出てくるのは五八七年。蘇我氏と物部氏の武力衝突の場面です。
蘇我氏側で参戦した十四歳の若き太子は四天王に戦勝を祈願します。
来月は聖徳太子の四天王信仰についてお伝えします。乞ご期待。