【第105号】日本仏教と聖徳太子の生涯3(日本への仏教伝来)

皆さん、こんにちは。日本仏教と聖徳太子の生涯がテーマの今年のかわら版。今月は仏法の初めです。

国神と仏神

五三八年、百済の聖明王から欽明天皇に贈られた仏像は、蕃神(あだしくにのかみ)、大唐神、他国神、仏神と呼ばれました。

当時の倭の国神は八百万神(やおよろずのかみ)。つまり、仏像は大陸から伝わった異国神です。

元興寺縁起は「数々の神心、発しき。国内乱れ、病死の人多し」と記し、仏神を受け入れたことで国神が怒ったと伝えています。

日本書記は、欽明天皇がやむなく「仏像を以て難波の堀江に流し棄つ。火を伽藍につく」と記しています。

今度は仏神が怒ります。「たちまちに大殿に災あり」(日本書記)「仏神は恐ろしき物にありけり」(元興寺縁起)。

仏神に対する恐れの気持ちは、やがて畏敬の念に転じていきます。

聖明王が仏教には利益(りやく)功徳(くどく)があると伝えていたこともあり、多くの豪族が氏神と一緒に仏神を祀る氏寺を建立。仏教は六世紀に急速に浸透しました。

朝鮮仏教と日本仏教

五七二年、敏達天皇が即位。五七七年、百済は倭との同盟強化を図るため、敏達天皇に経典・律師・禅師・比丘尼(びくに)・呪禁師(じゅごんし)・造仏工・造寺工を贈ります。

五七九年、今度は新羅が倭に朝貢外交。敏達天皇に仏像を贈ります。

高句麗も高僧を派遣。倭の最初の出家者の戒師(かいし=導師)は高句麗の恵便(えべん)となりました。

百済、新羅、高句麗の三国は、倭との外交関係を自国優位に展開するため、日本仏教への影響力を競いあっていたのです。

仏法の初め

この時期の日本仏教には、既に仏像、仏殿、仏舎利、信者が揃っており、足りないものは出家者でした。

五八四年、百済から初めて弥勒菩薩像が伝来したのを機に、崇仏派の蘇我馬子は出家者を誕生させることを思い立ちます。

高句麗から渡来していた恵便を戒師とし、善信尼、その弟子として禅蔵尼、恵善尼の三人が出家。倭にとって初めての出家者です。

日本書記と蘇我氏顕彰譚は「仏法の初め、これよりおこれり」と記しました。

中国仏教や朝鮮仏教では、尼(あま)は僧から受戒するのがルール。つまり、僧がいてこそ尼が誕生します。倭の最初の出家者が尼であったことは、国神と同じ感覚で仏神を捉えていた日本仏教の特徴を示しています。

すなわち、国神に仕えるのは巫女(みこ)の役目。蘇我馬子は仏神にも巫女のような存在が必要と考え、尼を先に誕生させました。この時期、倭の仏教はやや異質であったと言えます。

聖徳太子の誕生

倭における仏教の理解は、聖徳太子の登場によって格段に進みます。

仏教公伝の受け手となった欽明天皇。仏法の初めを迎えた敏達天皇。

欽明天皇最後の年に生を受け、敏達天皇最初の年、五七二年に誕生したのが聖徳太子=厩戸皇子(うまやどのおうじ)です(五七四年生まれという説もあります)。

生母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)。厩戸という名前の由来は、馬小屋の前で生まれたから、あるいは叔父である蘇我馬子の屋敷で生まれたからとも言われています。

来月は聖徳太子の誕生にまつわる話をお伝えします。乞ご期待。