【第104号】日本仏教と聖徳太子の生涯2(卑弥呼と倭の五王)

皆さん、こんにちは。日本仏教と聖徳太子の生涯をテーマにお届けしている今年のかわら版。今月は卑弥呼と倭の五王です。

遠交近攻

先月号では、中国の魏から、卑弥呼が親魏倭王に冊封(任命)されたことをお伝えしました。同盟国として認められたという意味です。

一方、倭よりも地理的に魏に近い朝鮮半島の韓族の王には、魏の地方組織の地位しか与えられませんでした。国ではなく、郡のような立場です。

当時の中国は魏・呉・蜀の三国時代。魏の南方に呉があり、倭が魏から優遇された理由は呉への対抗策でした。

日本は暖流の影響で実際の緯度よりも暖かい気候であり、当時の人々は日本列島がかなり南方まで延びていると考えていたようです。

つまり、魏のライバルである呉の背後に倭があると考え、呉を挟み撃ちにする戦略です。遠交近攻は中国古来の兵法の鉄則。隣接する呉を牽制するため、倭を同盟国と位置付けました。

公開土王と朝鮮仏教

二四八年頃、卑弥呼が亡くなると倭では戦乱が拡大。同盟国の魏は張政を派遣し、卑弥呼の宗女、壱与(台与)を支援。倭の王権を支えました。

その後、三~四世紀にかけて、朝鮮半島の韓族(馬韓、弁韓、辰韓)から興った百済、新羅、伽耶(かや)、大陸と半島の境界線に登場した高句麗、それに倭が加わった国々が攻防。総じて言えば、高句麗・新羅連合軍と百済・伽耶・倭連合軍の戦いです。

三九一年、高句麗に公開土王(こうかいどおう)が登場し、領域を拡大。昨年十一月号でもご紹介したとおり、公開土王の時代に仏教が朝鮮半島に本格的に伝わりました。

こうした中、倭は朝鮮半島での攻防を優位に展開するため、高句麗の背後の中国王朝(東晋、宋など)に朝貢。同盟関係をつくることに腐心します。

倭の五王

魏志倭人伝の記述以降、中国の史書に登場しなくなった倭王。しかし、五世紀の宋書に再び登場します。

四二一年、倭王の讃(さん)が宋の皇帝から安東将軍倭国王(東の地域の軍事責任者)に任命されたことを含め、倭の五王(讃・珍・済・興・武)が宋に朝貢、冊封されたという史実が記されています。梁書には弥(み)という倭王の名前も登場します。

これらの倭王がどの天皇を指しているかについては諸説あります。なお、天皇号は七世紀頃に定められた呼称であり、この頃は倭王です。

讃には応神(十五代)、仁徳(十六代)、履中(十七代)天皇説があり、珍は反正(十八代)、済は充恭(十九代)、興は安康(二十代)天皇と言われています。

通説が確立しているのが武。二十一代雄略天皇(四五六~四七九年)です。

四七八年、宋から「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東将軍・倭国王」という長い名前の役職を受けました。

もっとも、宋の東アジア外交の優先順位は、一に高句麗、二に百済、倭はその後という位置づけ。役職はあくまで表面的な対応です。

実利が得られないこともあり、倭の朝貢外交は四七八年をもって中断。

しかし、この時代に中国王朝や朝鮮半島各国を通じ、仏教が非公式に日本に伝わりました。

日本への仏教伝来

五三八年、百済の聖明王から日本の二十九代欽明天皇に公式に仏教が伝えられます。来月は日本への仏教伝来。乞ご期待。