【第103号】日本仏教と聖徳太子の生涯1

衛氏朝鮮から古代三国時代

皆さん、こんにちは。今年のかわら版も最終回。今月は日本への仏教伝来です。

皆さん、あけましておめでとうございます。十年目に入りました弘法さんかわら版。今年もよろしくお願い致します。今年のテーマは日本仏教と聖徳太子の生涯です。

楽浪海中に倭人あり

一昨年はお釈迦様の生涯と仏教誕生の歴史、昨年は仏教が東南アジア、チベット、シルクロード、中国、朝鮮、日本へと伝わる仏教伝来をお伝えしました。

日本仏教の成り立ちを知るためには、国としての日本の歴史も知る必要があります。

日本が歴史に登場するのは紀元前後のこと。中国の歴史書「漢書」に「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす」という記述があります。

当時の東アジアに君臨していたのは中国の漢。南の南越王国を滅ぼして交趾(こうし)郡を置き、北は衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪(らくろう)郡など四郡を置いていました。

つまり、朝鮮半島の楽浪郡の海の向こうに倭人の国がたくさんあるというのが漢書の記述です。

奴国の帥升

「漢書」に続く「後漢書」は「建武中元二年(五七年)、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す」と記しています。中国に仏教が伝来した頃です。

倭(わ)とは、当時の中国から見た朝鮮半島の海の向こうにある地域(つまり日本)のこと。奴(な)国は倭にある国の名前。現在の福岡市周辺にあったようです。

後漢書は、奴国が後漢に朝貢していたことを示しています。

続いて「安帝永初元年(一〇七年)、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う」と記述。

帥升(すいしょう)とは歴史に初めて登場する倭国王の名前。生口(せいこう)は捕虜や奴隷のことを指します。

この記述から、倭国やその中の小国(例えば奴国)が、朝鮮半島の楽浪郡や背後に君臨する漢王朝と密接な交流や、時には戦争があったことが推測できます。

卑弥呼と難升米

二世紀には中国の後漢が衰退し、朝鮮半島北部には高句麗、西海岸から南部には韓族(馬韓・辰韓・弁韓)の七十以上の国が誕生します。

二世紀末期、朝鮮半島の海の向こうの倭国でも変動が起き、魏志倭人伝は次のように記しています。

「男子を以て王となし、住(とど)まること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること暦年、及(すなわ)ち一女子を共立して王となす、名は卑弥呼という」。

男子は帥升と推測されます。つまり「帥升時代から数十年後、倭国に大乱があり、卑弥呼という女王を立てて統合を回復した」という意味です。

三世紀に入ると、朝鮮半島の楽浪郡の南に帯方郡が設けられ、韓と倭はその管轄下に置かれました。

二二〇年、後漢が滅び、中国は魏・呉・蜀の三国時代入り。

二三八年、卑弥呼は難升米(なしめ)を帯方郡に派遣し、魏王への謁見、朝貢を求めます。

帯方郡の太守(長官)劉夏(りゅうか)は難升米を魏の都(洛陽)に送り、難升米は魏王から詔書を賜ります。

魏志倭人伝には「親魏倭王卑弥呼に制詔す」と記されています。つまり、卑弥呼は親魏倭王に任じられ、倭を治める倭王に冊封されます。

一方、朝鮮半島の韓族の長が王より下位の邑君(ゆうくん)・邑長にしか任じられなかったのとは対照的です。

倭の五王

なぜ卑弥呼は韓族の長より厚遇されたのでしょうか。来月はその意味をお伝えするとともに、讃・珍・済・興・武の倭の五王時代をお伝えします。乞ご期待。