【第102号】仏教伝来12(日本への仏教伝来)

皆さん、こんにちは。今年のかわら版も最終回。今月は日本への仏教伝来です。

聖明王と欽明天皇

わが国最古の歴史書である日本書記。その記述によれば、日本に仏教を正式に伝えたのは百済の聖明王です。

五三八年、聖明王が欽明天皇に国使を派遣し、仏像や経典を贈りました。

当時の朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の古代三国時代。南部には倭国(日本)の影響下にあった任那(みまな)もありました。

百済は高句麗、新羅への対抗上、倭国との関係強化を図り、当時の最新文化であった仏教を日本に伝えました。

朝鮮半島からの渡来人は多く、既に仏教は知られ始めていましたが、国家間で正式に伝わったという意味で仏教公伝(こうでん)と言われます。

なお、公伝は五五二年説もありますが、通説は五三八年です。

崇仏派と排仏派

贈られた仏像は蕃神(あだしくにのかみ)、大唐神、他国神、仏神と呼ばれました。当時の国神は八百万神(やおよろずのかみ)。つまり、仏像は大陸から伝わった外国の神様です。

欽明天皇を支える二大重臣は大臣(おおおみ)の蘇我稲目(そがのいなめ)と大連(おおむらじ)の物部尾輿(もののべおこし)。

国神祭祀を司る天皇が他国神を拝むわけにいかず、仏像と経典は蘇我稲目に下賜されました。

ここに仏教に寛容な崇仏派蘇我氏と、否定的な排仏派物部氏の対立がスタート。背景には、二大重臣による勢力争いが影響していたようです。

聖徳太子の十七カ条憲法

欽明天皇の後は、敏達天皇、用明天皇と続きます。

五七二年、用明天皇の第二子として誕生したのが厩戸皇子(うまやどのおうじ)。のちの聖徳太子です。

五八七年、用明天皇は病を患い、治病を祈願して三宝帰依(さんぽうきえ)。つまり、仏様に帰依しました。

用明天皇が亡くなると、崇仏派蘇我馬子と排仏派物部守屋が次期天皇を巡って対立。太子は馬子について戦い、五八八年、叔父である崇峻天皇を擁立。

ところが、崇峻天皇はわずか四年で馬子によって暗殺され、五九三年、今度は太子の伯母である推古天皇が即位。太子は摂政に任命されます。

乱世に翻弄された太子は、仏教に基づいた秩序ある治世を目指し、六〇四年、十七カ条憲法を制定しました。

世間虚仮、唯仏是真

この間、仏教は徐々に浸透。五八八年、百済から仏舎利とともに大勢の仏教スタッフ(僧、仏師、寺大工等)が来朝。倭国初の出家者である善信尼が百済から帰朝(五九〇年)、四天王寺完成(五九三年)、太子の師となる百済僧の慧慈(えじ)来朝(五九五年)、飛鳥寺(法興寺)完成(五九六年)と続きます。

六二二年二月二十一日、太子は四十九歳で亡くなりました。遺言は「世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」。

曰く「現世は虚飾であり、空しく、ただ仏の道だけが真実である」。

その後、大化改新(六四五年)を経て、太子の思い描いた国家づくりが始まり、仏教も新たな段階に進みます。

聖徳太子の生涯と日本仏教

来年は、聖徳太子の生涯を通して、日本仏教のルーツを探ります。題して、聖徳太子の生涯と日本仏教。乞ご期待。それでは、良い年をお迎えください。