【第101号】仏教伝来11(朝鮮半島への仏教伝来)

皆さん、こんにちは。今年のかわら版もいよいよ佳境。今月は朝鮮半島への仏教伝来です。

衛氏朝鮮から古代三国時代

紀元前二世紀、朝鮮半島を支配していた衛氏朝鮮は、中国前漢の武帝に滅ぼされます。

その後、北部で高句麗(こうくり)が誕生。南部には漢族の群立国家が興隆しました。

やがて群立国家は馬韓、弁韓、辰韓の三つにまとまり、馬韓の中から百済(くだら)、辰韓の中から新羅(しらぎ)が誕生。

朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の古代三国時代に入りました。

公開土王と聖明王

高句麗への仏教伝来は三七二年。中国前秦の僧、順道(じゅんどう)によって仏像や経典がもたらされました。

三九四年、公開土王(こうかいどおう)が九つの寺を建立。多くの僧が中国に行き、やがて日本にも渡りました。

日本に最初に来た高句麗僧は慧便(えびん)。聖徳太子の師となったのは慧慈(えじ)です。

百済への仏教伝来の時期は明らかではありません。三八四年に中国東晋の僧、摩羅難陀(まらなんだ)の来朝記録があるため、それ以前には伝わっていたようです。

五三八年、百済の聖明王は日本の欽明天皇に仏教を伝えました。

その後は多くの百済僧が来日。日羅(にちら)は聖徳太子に教えを説き、豊国(ぶこく)は四天王寺の落慶法要の導師を務め、観勒(かんろく)は日本で僧正に上りつめ、僧を管理する僧綱(そうごう)制度をつくりました。

護国仏教と花郎集団

新羅への仏教伝来時期も不詳ながら、六世紀の法興王による仏教公認、真興王による興輪寺建立を契機に仏教が急速に普及しました。

真興王を継いだ真平王の時代に護国仏教の考え方が浸透。その護国仏教を支えたのが花郎(かろう)集団と呼ばれる貴族階級の子弟の集まり。

花郎集団は普段は親睦組織ですが、戦時には軍団に早変わり。自分たちは弥勒菩薩の化身という信念を持ち、戦場で絶対に退かなかったと言います。

六七五年、仏教を国教化した新羅が朝鮮半島を統一。九〇四年まで続いた新羅時代に仏教が興隆しました。

高麗から李氏朝鮮

九一八年に建国された高麗(こうらい)は、九三六年に朝鮮半島を統一。

北方民族の侵入防止に腐心した高麗時代。仏教は護国仏教の色彩をさらに強め、全盛期を迎えました。

十四世紀末になると、北方の女真族や日本の倭冦を破った李成桂(りせいけい)が台頭。一三九二年に李氏朝鮮を建国。

李氏朝鮮では儒教が中心となり、仏教は弾圧されました。寺院は山の上だけに限られ、一般民衆の立入を禁止。僧が強制的に還俗されることもありました。

一九一〇年、李氏朝鮮は日本に併合(日韓併合)。第二次世界大戦後の一九四八年に韓国として独立。仏教も韓国仏教として再生を果たして今日に至っています。

日本への仏教伝来

来月は仏教伝来の最終回。いよいよ日本への仏教伝来です。蘇我氏と物部氏の対立を経て、聖徳太子が仏教を中心とした国づくりを始めます。乞ご期待。