【第97号】仏教伝来7(仏教が中国に根付いた魏晋南北朝時代)

皆さん、こんにちは。仏教伝来がテーマの今年のかわら版。今月は仏教が中国に根づいた魏晋南北朝時代についてです。

魏晋南北朝時代

先月号で、後漢(西暦二五年~二二〇年)の頃に仏教が伝わり、三国時代(二二〇年~二八〇年)に訳経僧が活躍したことをお伝えしました。

三国とは魏・呉・蜀。最も有力だったのが魏であり、やがて晋(西晋)という国に統一されます。

さらに晋は南北に分裂。五八九年に隋が中国を統一するまでが南北朝時代です。

三国、晋、南北朝の期間を総称して魏晋南北朝時代(二二〇年~五八九年)。中国の歴史で最も複雑な時代であり、仏教が中国に根づいた時代でもあります。

民衆が戦乱を憎んで宗教に頼る傾向が強まったことも影響しています。

竹林の七賢

後漢滅亡を機に、知識層は伝統的な道教や儒教に代わる新しい思想として仏教に関心を高めました。

晋の時代、山中に住んで自由な論談を交わした七賢人=竹林(ちくりん)の七賢(しちけん)は、仏教の「空」の思想に着目し、中国古来の「無」の考え方と融合させました。「無」は老荘思想に代表される儒教の教えです。

仏教の教えを中国古来の思想でとらえ直すことを、のちに各義仏教と呼ぶようになります。

仏図澄、法顕、鳩摩羅什

晋の武帝は「後宮の美女一万」をはべらすような放蕩三昧。これでは国は治まらず、晋は南北に分裂。

華北(黄河流域)は、五つの異民族(五胡)が争って十六の国々が興亡する五胡十六国時代となります。

そのうちのひとつ、後趙(こうちょう)で活躍したのが西域の亀茲(きじ)国出身の仏図澄(ぶっとちょう)。

暴虐な王であった初代石勒(せきろく)、二代石虎(せきこ)は仏図澄の教えに従い、見違えるような名君に成長。千近い寺院を建立しました。

仏図澄の一番弟子は、般若経の注釈書を書いた道安(どうあん)。中国仏教は経典の翻訳から解釈の時代に移っていきました。

道安の弟子が浄土教を開いた慧遠(えおん)。仏図澄、道安、慧遠の三人が初期中国仏教を支えました。

後趙に続く前秦時代に登場したのが法顕(ほっけん)。最古のインド旅行記として知られる仏国記(法顕伝)をまとめました。

同じ頃、亀茲国から中国に無理やり連れてこられたのが鳩摩羅什(くまらじゅう)。俊英な名僧として知られ、その後の中国仏教を方向づけました。

菩提達磨、真諦

一方、異民族(五胡)から逃れた漢民族は江南(揚子江流域)に移住。南朝は安定した貴族社会となり、仏教は政治的に保護されました。

とくに梁(りょう)の武帝の時代に仏教が発展。インドから菩提達磨(ぼだいだるま=達磨大師)が来朝し、禅宗を開きました。

真諦(しんだい)も武帝に招かれて来朝。鳩摩羅什、玄奘、不空とともに、四大訳経家として知られています。

隋唐時代の仏教

隋は五八一年~六一八年、続く唐は六一八年~九〇七年の国です。来月は中国仏教が発展した隋唐時代。乞う、ご期待。