【第96号】仏教伝来6(中国に伝わった仏教=訳経僧=)

皆さん、こんにちは。仏教伝来をお伝えしている今年のかわら版。今月はいよいよ中国ルート。インドから北西のシルクロード、そして中国に伝わった第三のルートです。

世界四大文明

皆さん、こんにちは。仏教伝来がテーマの今年のかわら版。先月からは中国に伝わった仏教の話です。今月は訳経僧についてです。

訳経僧(やっきょうそう)

中国に仏教が伝わったのは一世紀頃の後漢の時代。日本に仏教が伝来する五百年前です。

しかし、サンスクリット語やパーリ語で書かれた経典を中国の人は読めません。

そこで活躍したのが、中国とインドの中継地点である西域や中継路であるシルクロードの僧たち。

彼らはインドの言葉と中国語に精通し、多くの経典を翻訳したことから訳経僧と言われています。

初めてまとまった経典を翻訳したのは二世紀半ばの安世高(あんせいこう)。もともとは西域の安息国(あんそくこく)の王子でしたが、王位を弟に譲って出家。安世高は三十四経典を訳したそうです。

やはり西域の月氏国出身の支婁迦讖(しるかせん)。道行般若経(どうぎょうはんにゃきょう)を翻訳。

道行般若経の「空」という概念が、中国古来の「無」という考え方と結びつき、その後の中国の思想に大きな影響を与えました。

戒律と伝記

二世紀後半になると安玄(あんげん)という訳経僧が渡来。やはり安息国の出身です。

安玄は僧が戒律を守ることの大切さを広めるために、戒律に関する経典を翻訳しました。

安玄と一緒に翻訳に当たった厳仏調(ごんぶっちょう)は、中国人で初めて正式に出家僧となった人物です。

三世紀になると、康居(こうきょ)という国から康孟詳(こうもうしょう)が渡来。康居は月氏国と安息国の北に位置する国です。

康孟詳はお釈迦様の伝記的経典を翻訳。これによってお釈迦様の素顔や人生が伝わり、中国に仏教が広がる契機となりました。

三国時代の訳経僧

後漢は西暦二二〇年に滅亡し、三国志で知られる魏・呉・蜀による三国時代が到来。

魏には曇柯迦羅(どんかから)、康僧鎧(こうそうがい)、曇帝(どんてい)といった訳経僧が渡来。戒律関係の経典を精力的に翻訳しました。

中国から西域に渡ったのは朱子行(しゅしこう)。放光般若経(ほうこうはんにゃきょう)を入手して弟子の不如檀(ふにょだん)に持ち帰らせて翻訳。朱子行は西域で命を落としましたが、朱子行のおかげで「空」の概念が中国で一段と広がりました。

呉で活躍した訳経僧は支謙(しけん)。前述の支婁迦讖の孫弟子ですが、六カ国語に精通し、般若経を中心に四十九経典を訳しました。

支謙は仏教音楽の梵唄(ぼんばい)の教科書も執筆。

「梵」はサンスクリット語のことですから、梵唄はサンスクリット語の賛歌という意味。日本では声明(しょうみょう)と言います。

三国時代の訳経僧の代表は竺法護(じくほうご)。支謙を上回る三十六カ国語に精通し、百四十九経典を翻訳。大半が大乗経典でした。

竺法護の晩年には、中国が三国時代から晋の時代に入ります。

竹林の七賢

来月は晋の仏教をお伝えします。晋は西暦二六五年から四二〇年の国。儒教、道教、仏教に基づく中国思想が確立していった時代です。

この三教は後に日本で弘法大師が著す三教指帰(さんごうしいき)の三教のこと。竹林(ちくりん)の七賢(しちけん)と言われる賢人をはじめ、多くの思想家や僧が活躍しました。乞うご期待。