【第88号】お釈迦様の生涯10(第一結集)

皆さん、こんにちは。朝晩は冷え込むようになりました。くれぐれもご自愛ください。お釈迦様の生涯をお伝えしている今年のかわら版。今月は第一結集(だいいちけちじゅう)です。

八つの仏舎利塔

お釈迦様入滅後、弟子たちは在家信者とともに葬儀を行い、ご遺体を荼毘にふしましたがなかなか燃えなかったそうです。

七日後、教団の後継者と目されたマハーカーシャパが到着。それを待っていたかのように火がつきました。

火葬が終わると遺骨を巡って問題が発生。お釈迦様とご縁の深い八部族がそれぞれ遺骨の持ち帰ることを主張して一触即発の状況となりました。

この時、ドローナという弟子が「お釈迦様は耐え忍び、譲り合い、争わないことを教えてくれたはずです。遺骨は平等に分けましよう」と提案。八部族で分骨し、それぞれ遺骨を安置する卒塔婆(ストゥーパ)を建てました。

ちなみに遺骨のことは原語でシャリーラ。中国では舎利と表記されたため、卒塔婆は仏舎利塔とも言われます。

余談ですが、お寿司屋さんのシャリはご飯の見た目が舎利に似ていることから由来した用語です。

アショーカ王と日泰寺

お釈迦様が入滅して約百五十年後、インドはマウリヤ朝のアショーカ王によって統一されました。

アショーカ王はインド統一の過程で体験した悲惨な戦争への反省もあって仏教に傾倒。信仰の対象となっていた仏舎利を八万四千の塔に祀り直したと言われています。

そのうちのひとつの塔を、一八九八年、北インドのピプラーワーでイギリス人ウィリアム・ペッペが発掘。

塔からは「シャークヤムニの遺骨」と記された壺が出土。この壺の中にあった仏舎利がインドからタイ王室、そして日本に渡り、覚王山日泰寺に祀られました。その経緯は過去のかわら版でお伝えしたとおりです。

第一結集(だいいちけちじゅう)

ところで、お釈迦様入滅後の教団はどうなったのでしょうか。

お釈迦様は弟子の個性に合わせて対機説法(応病与薬、臨機応変)を行ったため、体系的な記録は一切残さず、その教えは全て口伝(くでん)でした。

マハーカーシャパは「口伝の内容を記録して後世に伝えないと教えが廃れる」と危機感を抱いたそうです。

そこで、マガダ国のラージャグリハにある七葉窟(しちようくつ)にお釈迦様の高弟五百人を集め、経典の編纂会議を開催。これを第一結集と言います。

悟りを開いた高弟のことを阿羅漢と言います。日本のお寺によく祀られている五百羅漢はこの第一結集に由来します。

三蔵(さんぞう)

経典の最初が「如是我聞(にょぜがもん)」から始まるのは「私はお釈迦様からこのように聞いた」という意味であり、口伝を編纂した名残です。

お釈迦様の侍者アーナンダは教えを一番たくさん聞いていたことから多聞第一(たもんだいいち)と呼ばれ「経」の編纂に貢献しました。

戒律を守る修行に打ち込んだウパーリは持律第一(じりつだいいち)と呼ばれ、お釈迦様の定めた規則、すなわち「律」の整理に寄与しました。

そして教えの内容は理論的に体系化され「論」が蓄積されていきます。

こうして、「経」「律」「論」の「三蔵」が成立しました。

第二結集(だいちけちじゅう)

今日の仏教との接点を探るために、来月は第二結集をお伝えします。乞ご期待。