【第78号】弘法大師の生涯12(仏教史の中の空海)

皆さん、こんにちは。弘法大師の生涯をお伝えしてきた今年のかわら版。締めくくりとして、仏教の歴史の中で空海がどのような時期に登場した偉人であったかを再確認しておきます。もちろん最澄も一緒です。

仏教伝来と聖徳太子

日本への仏教伝来は五三八年。百済の聖明王から欽明天皇に仏像や経典が贈られました。それ以前から徐々に仏教は伝わっていましたが、公式に伝来したのはこの時です。

崇仏派(蘇我氏)と排仏派(物部氏)の争いの中で聖徳太子が登場。太子は仏教精神に基づく治世を目指して十七条憲法を制定。しかし、国の混乱は収まらず、太子は失意の中で四十九歳で逝去(六二二年)。

出家を望みながら、政治家として生きざるを得なかった太子の遺言は「世間虚仮、唯仏是真(せけんこけ、ゆいぶつぜしん)」。社会の虚飾を憂い、仏だけが真実と遺した太子の月命日は空海と同じ二十一日です。

大化元年(六四五年)、大化改新によって混乱は収まり、太子の願いどおり、仏教精神が宿る律令国家が始動しました(元号は「大化」が始まりです)。

奈良仏教と南都六宗

和銅三年(七一〇年)、元明天皇が平城京に遷都。二代後の聖武天皇は全国に国分寺を造営。平城京には総国分寺として東大寺を建立。大仏開眼は勝宝四年(七五二年)です。

平城京には南都六宗という国家公認の学問仏教が発展しましたが、政治や貴族との談合で腐敗。奈良仏教は堕落していきました。そんな時代に誕生したのが空海でした。

平安仏教と空海と最澄

宝亀五年(七七四年)、讃岐(香川)で空海誕生。先立つこと七年、近江(滋賀)で最澄誕生。

延暦十三年(七九四年)、桓武天皇が治世の腐敗を立て直すために平安京に遷都。奈良仏教に代わる新しい平安仏教を希求し、空海と最澄がその役割を担うことになりました。

弘仁十三年(八二二年)、最澄は五十六歳で入滅。承和二年(八三五年)、空海は六十二歳で入定。

空海と最澄の活躍した約五十年間が、日本の仏教の礎となりました。空海の真言宗は十大弟子に引き継がれ、分派せずに今日に至っています。一方、最澄の天台宗からは多くの宗派が生まれました。

変化の時代の鎌倉仏教

平安時代は平安京遷都から源頼朝が征夷大将軍に任じられた建久三年(一一九二年)までの約四百年間。

鎌倉時代になると、今日に続く新しい宗派が次々に誕生しました。浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、時宗(一遍)、臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)、日蓮宗(日蓮)などです。

平安時代末期には武家(平氏、源氏)が台頭し、鎌倉時代は朝廷(京都)と幕府(鎌倉)の二元政治となりました。治世の混乱と社会の変化に人心は動揺。心の拠り所として鎌倉仏教が興隆しました。

自分自身を見つめ直す

その後は、室町・戦国・安土桃山・江戸時代と続き、明治維新を経て、今日に至っています。

この間、治世の一環としての檀家制度や葬送のしきたりも発展。廃仏毀釈などの不遇の事態にも遭遇しましたが、空海が追求した自分自身を見つめ直す仏道、仏法の原点は健在です。

時空を超えた永遠の定(じょう)に入り、今でも御廟で人々の安寧を願っている空海を偲びつつ、心静かに自分自身を見つめ直し、新年を迎えたいと思います。合掌。