【第74号】弘法大師の生涯8(入定後の空海)

皆さん、こんにちは。お盆もすぎましたが、まだまだ暑い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。弘法大師の生涯をお伝えしている今年のかわら版。今月は入定(にゅうじょう)後の空海です。

五筆(ごひつ)和尚

承和三年(八三六年)、空海入定の翌年、後継者である実慧(じちえ)が、空海の恩師である恵果(けいか)和尚の墓前と青龍寺の人々に空海入定を報告するために弟子二人を唐に派遣。しかし、船は対馬に漂着して入唐できませんでした。
承和四年(八三七年)、再度弟子が派遣され、ようやく空海入定が恵果和尚の墓前に報告されました。
仁寿三年(八五三年)、空海の甥にあたる天台宗の円珍(えんちん)が入唐した際、恵灌(えかん)という老僧から「五筆和尚はお元気ですか」と尋ねられました。

五筆和尚は空海のことだと気づいた円珍が「お亡くなりになりました」と伝えると、老僧は号涙。円珍は他の僧からも何度も空海がいかに卓越した僧、名書家であったかを聞かされました。空海の唐滞在はわずか一年だけ。半世紀も経ってこのように偲ばれることから、空海が唐の人々にいかに強烈な印象を与え、かつ敬愛されていたかが分かります。

醍醐天皇と弘法大師

空海入定後、高野山は真然(しんぜん)、東寺は実慧(じちえ)、神護寺は真済(しんぜい)と、高弟がそれぞれ引き継いでいきました。
入定後も空海の名声はさらに高まります。天安元年(八五七年)、文徳天皇が空海に大僧正の官位を追贈。
貞観六年(八六四年)、今度は清和天皇が空海の徳を讃えて法印大和尚位を追贈。
そして、延喜二十一年(九二一年)、醍醐天皇が弘法大師の諡号(しごう)を追贈。時の東寺長者(管長)の観賢(かんげん)僧正は、天皇から下賜された御法衣を持って高野山に上り、奥の院御廟を開扉。空海の法衣を改めました。
大師号は、功徳のあった高僧に対して朝廷(天皇)から送られる諡号(しごう)=おくりなです。現在までに二十四人の高僧が大師号を贈られています。

御影供(みえく)法要

都に戻った観賢僧正は、東寺灌頂院(かんじょういん)において、毎月二十一日の空海の月命日に法要を行う御影供を定例化。
こうして、入定信仰、弘法大師号、御影供という、弘法大師信仰の三要素が確立しました。
平安時代は延暦十三年(七九四年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから、源頼朝が征夷大将軍に任命されて鎌倉幕府が確立する建久三年(一一九二年)頃までの約四百年間を指します。
平平安時代末期には弘法大師信仰、東寺信仰が篤くなり、南大門前に一服一銭という茶屋が開かれました。御影供法要の毎月二十一日に大勢の人で賑わう「弘法さん」の縁日も、その頃に始まったようです。
東寺には、往年の空海が十年の歳月を費やして完成させた講堂があります。大日如来を中心にした立体曼荼羅は、空海が唐で感得した密教世界が表現されています。

空海の十巻章

来月は空海がその生涯の中で書き上げた著作をご紹介します。その中の中心的な著作を空海の十巻章(じっかんじょう)と言います。乞う、ご期待。