【第73号】弘法大師の生涯7(晩年と入定)

皆さん、こんにちは。夏本番ですね。くれぐれもご自愛ください。弘法大師の生涯をお伝えしている今年のかわら版。今月は空海の晩年です。

十住心論と秘蔵宝鑰

天長七年(八三〇年)、淳和(じゅんな)天皇が仏教各宗派に対して、それぞれの教義をまとめて提出することを命じました。

空海は十住心論(じゅうじゅうしんろん)十巻と秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)三巻を上進。五十七歳の時です。

これら著作の素晴らしさに朝廷も他の宗派も感服。これを契機に奈良仏教に対する平安仏教の立場が確立し、仏教は新しい時代に入りました。

天長八年(八三一年)、円澄(えんちょう)以下三十数名の最澄の高弟が、密教を学ぶことを望んでいた師の遺志を継ぎ、空海に師事して密教を受学。最澄入滅後、十年を経た出来事です。

万燈会(まんどうえ)

嵯峨天皇から高野山開山の勅許を得て十六年。山奥のために難航した伽藍の建設も一段落。天長九年(八三二年)、空海は初めて高野山で法要を行いました。

一万の燈明と一万の供花(くげ)を供養し、人々の安寧を願う万燈会です。万燈万華(まんどうまんげ)の法要とも言います。この年の十一月、空海は高野山での隠棲生活に入りました。五十九歳の時です。

「長者の万燈と貧者の一燈」の精神を示す高野山奥の院燈籠堂。万燈会に白河法皇が三万の燈明を献じた際、貧者が献じた燈明だけが激しい風雨にも消えなかったことから、貧しい人の真心のこもった寄進は富める者の寄進に優ることを伝えています。

永遠の禅定=入定

天長十年(八三三年)、空海の生涯に大きな影響を与えた嵯峨天皇(当時は上皇)の皇子が仁明天皇として即位。
隠棲生活を送っていた空海は還暦を迎え、高野山での澄んだ心境を詩っています。題して「後夜(こうや=夜明け)に仏法僧鳥を聞く」。

閑林に独座す、草堂の暁
三宝の声、一鳥に聞く
一鳥声あり、人心あり
声心雲水、ともに了々

曰く、三宝(真理=仏、教え=法、教えを尊ぶ人々=僧)の響きをこのはずく(別名ぶっぽうそう)の声に聞く。鳥の声、人の心、流れる雲、逝く水、みな仏の営みそのもの。空海の安寧の境地が伝わってきます。

承和二年(八三五年)、隠棲以来、滅多に下山しない空海が宮中での御修会(みしゅえ)に参会して国家安穏を祈願。最後の都入りとなりました。
高野山に戻った空海は、終(つい)の棲家として奥の院参道入り口「一の橋」から約二キロメートルの御廟(ごびょう)を自ら選びました。

同年三月二十一日、「五十六億七千万年後、弥勒菩薩とともに人々を救済するためにこの世に現れる」と遺告(ゆいごう)を残し、結跏趺坐(けっかふざ)して大日如来の定印(じょういん)を結んで入定(にゅうじょう)。六十二歳でした。

時空を超えた永遠の定(じょう)に入り、空海は今でも御廟で人々の安寧を願っているという入定信仰が続いています。

醍醐天皇と弘法大師

弘法大師生涯絵図を所蔵する覚鳳寺、別名寅薬師。今月は空海入定の図です。
来月は入定後の空海。弘法大師の諡号(しごう)のを醍醐天皇から賜ります。乞う、ご期待。

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