【第72号】弘法大師の生涯6(円熟期の業績)

皆さん、こんにちは。梅雨の季節になりました。くれぐれもご自愛ください。弘法大師の生涯をお伝えしている今年のかわら版。今月は、円熟期の業績についてです。

満濃池(まんのういけ)

弘仁九年(八一八年)、四十五歳の時に高野山を開山。以後、空海は数々の偉業を成し遂げます。

弘仁十二年(八二一年)、空海四十八歳。空海の故郷、讃岐(香川県)の郡司(役人)が朝廷に満濃池という溜池の堤防修築を願い出ました。

この堤防は三年前に決壊。技術、人手、資金が足りず、修築の見込みが立たなくなったためです。

しかも、空海を築満濃池別当(監督官)に迎えたいとの申し出。空海は僧であると同時に、一流の知識人、文化人。唐で土木工事などの知識や技術も身に付けて帰国。また、讃岐出身の著名人である空海が別当となれば、人も資金(寄附)も集まるとの読みでした。

朝廷は願い出を受け、直ちに太政官符を発布。空海を讃岐に派遣し、修築に国費も用意しました。

空海は約三ヶ月で修築を終え、満濃池のほとりに神野寺(じんやじ)を建立。修築完了とその後の安寧を祈願しました。

ゆる抜き

満濃池の修築は現在のダム工法と同じ手法で行われました。アーチ式堤防や水抜きの土木工学的技術が駆使され、現在でも日本一の溜池。灌漑面積は四六○○平方キロメートルに及びます。

毎年、空海の誕生日(六月十五日)に取水が始まり、当日は大勢の人が神野寺を参拝。空海に感謝して堤を開くゆる抜きという行事が行われています。

東寺(とうじ)

弘仁十三年(八二二年)、東大寺に灌頂道場真言院を開創。空海四十九歳。

弘仁十四年(八二三年)、嵯峨天皇が京都の東寺(教王護国寺)を真言密教の根本道場として空海に下賜。空海五十歳。嵯峨天皇はその直後に退位し、淳和(じゅんな)天皇が即位しました。

東寺は平安京を護るために、遷都の二年後(七九六年)、南大門(羅城門)近くで建立が始まった官寺です。桓武天皇が発願し、平城・嵯峨・淳和天皇時代の三十年を経ても、まだ伽藍は完成していませんでした。

天長元年(八二四年)、空海は造東寺別当に任命され、伽藍の完成に腐心しました。

修行の拠点である高野山、都での活動拠点としての東寺を得て、空海はますます積極的に社会貢献と宗教活動に邁進していきました。

綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)

天長五年(八二八年)、藤原三守(ふじわらみもり)という貴族が、東寺に隣接する私邸と敷地を空海がかねてから構想していた庶民の学校に使ってほしいと寄贈を申し出。空海はたいへん喜び、さっそく綜芸種智院を開学。空海五十五歳の時です。

綜芸種智院は誰でも自由に学べる学校で、幅広い知識を身につけることを目標としていました。教育の機会均等、学問の自由、総合教育、完全給費制を導入。今日でも通用する先進的な学校教育を行いました。

弘法大師の晩年

弘法大師生涯絵図を所蔵する覚鳳寺、別名寅薬師。今月は満濃池修築と綜芸種智院での講義風景です。
来月は空海の晩年と入定(にゅうじょう)をお伝えします。乞う、ご期待。