【第71号】弘法大師の生涯5(最澄との決別と高野山開山)

皆さん、こんにちは。新緑が日々色濃くなる季節になりました。気持ちいいですね。弘法大師の生涯をお伝えしている今年のかわら版。今月は最澄との訣別と高野山開山。

二冊の本(依憑天台宗と理趣釈経)

弘仁三年(八一二年)、空海は神護寺で最澄に結縁灌頂(けちえんかんじょう)を行い、子弟関係を結びました。空海三十九歳の時です。空海と最澄は意気投合し、交流を深めていきました。

弘仁四年(八一三年)、最澄は天台宗が仏教の中心と説く依憑天台宗(えひょうてんだいしゅう)という本を執筆。その中で真言宗の祖師のひとり、不空(ふくう)の教えを追及したと言われています。

同年暮れ、最澄は不空の達意が盛り込まれた理趣釈経(りしゅしゃっきょう=理趣経の解釈本)の借用を空海に申し出。空海は「不空の教えを追及しながら、その達意を説く本を借用するのは納得できない」として断りました。

求道者の信念

空海も最澄も仏教の教えを学ぶ真面目な求道者。空海は真言宗、最澄は天台宗から究めようとしました。

修行からの悟りを説く空海、筆受の伝統を重んじる最澄。究め方の違いから二人は別々の道を歩むことになりましたが、求道者の信念と言えます。

空海のもとで修行していた最澄の弟子泰範(たいはん)。最澄のもとに帰らなかったことも二人の訣別の原因という説もありますが、どうも事実と異なるようです。泰範自身が比叡山に帰り辛い理由があったため、空海が最澄にその旨を伝えたそうです。

経典の貸借や弟子を巡って二人が仲違いしたのではなく、求道者の信念から、それぞれの道を歩んだのです。

狩場明神と高野山開山

弘仁七年(八一六年)、空海は密教修行の道場として高野山下賜を嵯峨天皇に上奏。まもなく勅許が下り、弟子の泰範、実慧(じちえ)が先に山に入り、開創準備に着手。二年後の弘仁九年(八一八年)冬から空海も山に入り、いよいよ高野山開山。空海四十五歳の時です。

この地を選んだのは、山岳修行時代に好適地と知ったからと言われていますが、伝説もあります。

大同元年(八○六年)、唐からの帰国に際し、「密教流布の根本道場を示せ」として海に向かって三鈷を投げ入れました。弘仁七年(八一六年)、開山場所を求めて山林を歩いていると狩場明神に遭遇。三鈷のかかる高野山に案内され、開山場所に決めたそうです。

空海円熟期入りと最澄入滅

弘仁十年(八一九年)夏から本格的な伽藍建築を開始。弘仁十三年(八二二年)、東大寺に灌頂道場真言院を開く頃にかけ、空海は円熟期に入ります。

同時期、最澄は奈良(小乗)諸宗との論争の真っ只中。最澄は比叡山にも大乗戒壇設立を上奏。弘仁十三年(八二二年)、最澄入滅直後に嵯峨天皇から勅許が下りました。

七歳違いの空海と最澄。この二人がいなければ、その後の日本の仏教も社会も異なる姿となったことでしょう。

満濃池と綜芸種智院

弘法大師生涯絵図を所蔵する覚鳳寺、別名寅薬師。今月は高野山開山の縁起図です。
来月は空海の業績をお伝えします。満濃池修築と綜芸種智院開学。乞う、ご期待。