皆さん、こんにちは。桜から新緑の季節になりました。すがすがしいですね。弘法大師の生涯をお伝えしている今年のかわら版。今月は最澄との出会い。話は遣唐使一行として入唐する時に遡ります。
空海と最澄
延暦二十三年(八〇四年)、空海と最澄は同じ遣唐使船団の第一船と第二船に乗船。空海三十一歳、最澄三十八歳の時です。
最澄は桓武天皇の命による入唐です。平安遷都によって人心の一新を図った天皇は、奈良仏教に代わる新しい平安仏教を求め、その任を既に名声を得て比叡山延暦寺で法華経を講じていた最澄に命じました。
暴風雨に遭った遣唐使船団。四隻のうち二隻は難破。空海と最澄は運良く別々の港に上陸し、空海は長安、最澄は天台山に向かいました。
天皇の命どおり天台山で行満(ぎょうまん)から天台教学を授かった最澄は帰国を急がねばならず、当時の唐で広まっていた密教を究めることはできませんでした。
最澄直筆の御請来目録
最澄の後に帰国した空海は、恵果和尚の後継者=密教の正嫡として多くの経典や法具を持って帰国。しかし、留学生(るがくしょう)=私費留学生としての二十年間の滞在義務を破って帰国した空海は入京を許されません。
そこで持ち帰った経典や法具の一覧を記した報告書=御請来目録(ごしょうらいもくろく)を朝廷に提出。最澄はこの目録を内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ=朝廷への助言役を務める学徳兼備の僧)として目にすることになります。
豊富な内容に驚いた最澄は自身の参考にするために御請来目録を書き写しましたが、現在国宝として残っているのは最澄直筆の書写分です。
嵯峨天皇の帰依
大同四年(八〇九年)、空海は嵯峨天皇によって三十六歳の時にようやく入京が許され、高雄山神護寺に滞在。神護寺は最澄の施主(後ろ盾)和気(わけ)氏の氏寺。
入唐前の最澄はここで天台講義を行っていましたが、密教を学ぶためにこの寺に空海を招いたことは、先月号でご紹介したとおりです。
最澄から空海に宛てた二十三通の手紙が残っており、最初のものは大同四年(八○九年)。十二部五十三巻の経典書物をお借りしたいという内容です。以後、二人は交流を重ねました。
弘仁元年(八一○年)、空海に嵯峨天皇が帰依。三十七歳の時です。 弘仁二年(八一一年)、嵯峨天皇から大慈山(だいじさん)乙訓寺(おとくにでら)の別当(統括僧官)に任命され、以後、空海はこの寺に在住しました。
最澄の結縁灌頂
弘仁三年(八一二年)、空海は十一月と十二月の二回に亘って神護寺で最澄ら百四十五名に結縁灌頂(けちえんかんじょう)を行い、子弟関係を結びました。空海三十九歳の時です。
この出来事は高雄灌頂と呼ばれ、灌頂の受者名を記した空海直筆の灌頂歴名は国宝に指定されています。
高野山開山
弘法大師生涯絵図を所蔵する覚鳳寺、別名寅薬師。今月は嵯峨天皇帰依と最澄結縁灌頂の図です。
来月は最澄との訣別と、四十五歳で高野山を開くまでの空海の葛藤と活躍をお伝えします。乞う、ご期待。