【第57号】大龍寺の五百羅漢堂

皆さん、こんにちは。今日は正御影供(しょうみえく)。弘法大師空海の御命日です。覚王山周辺の寺社仏閣、名刹を紹介しています今年のかわら版。今月号は大龍寺(だいりゅうじ)です。

*文中( )内の数字は参照号

本所五百羅漢寺の「写し」

大龍寺は姫ヶ池通の東側、仏舎利を納めた奉安塔の奥にあります。尾張徳川藩・三代藩主綱誠の命を受けて喝伝和尚が出来町(東区)に創建(一七二五年)しました。

その後、指月和尚が当時江戸で大人気の五百羅漢寺の「写し」として羅漢堂を造営(一七七八年)。堂内に安置される五百羅漢は、名古屋城築城時の犠牲者を供養するために作られ、一七八○年に開眼しました。

本尊の釈迦牟尼像は建中寺の聞誉上人が寄進(一七八二年)。一九二七年に覚王山に移築。今日の姿になりました。

第一結集の五百羅漢

さて、羅漢とはお釈迦様のお弟子さんたちの呼称。最初の十六人の弟子を十六羅漢(第五十三号)、お釈迦様入滅後にその教えを整理するための会合=第一結集(だいいちけつじゅう)に集まった五百人のお弟子さんを五百羅漢と呼びます。

江戸時代には五百羅漢参拝が大流行。その中心が本所の天恩山五百羅漢寺。その後は目黒に移転しましたが、綱吉、吉宗など、歴代将軍の庇護を受けてたいへん繁栄しました。その賑わいに触発されて指月和尚が「写し」を造営。当時の様子が尾張名所図会に描かれています。大変立派なつくりですね。

江戸時代には四国霊場参拝も大人気。ここ覚王山にもご存知のように八十八箇所霊場の「写し」がありますが、大龍寺の羅漢堂も「写し」とは知りませんでした。

明(中国)風の独特の風情

大龍寺は東海地方には珍しい黄檗(おうばく)宗。明(みん=中国)の高僧、黄檗山萬福寺(福建省)の隠元(いんげん)が来日(一六五四年)。将軍・家綱公の庇護を受け、京都・黄檗山萬福寺ができました(一六六一年)。大龍寺も万福寺の末寺です。

坐禅によって悟りを得て仏になること(見性成仏)を目指すのが禅宗。日本には禅宗五家のうち臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の三宗があります。当初は臨済正宗黄檗派と称し、一八七六年、独立して黄檗宗になりました。

黄檗宗は明(中国)風の読経や鳴り物を使う儀礼が特徴的。黄檗の梵唄(ぼんばい)と呼ばれます。造りも独特の趣き。城のような本堂、赤壁など明風の建築様式で、赤寺、南京寺と呼ばれるお寺もあります。

大龍寺本堂も、入母屋屋根に鯱(しゃち)が乗り、城櫓(やぐら)を思わせる独特の風情。そのためか、覚王山への移築に一年半もかかったそうです。

弘法大師空海の真言宗のご本尊は大日如来。一方、黄檗宗のご本尊は特定されておらず、お寺ごとにそれぞれのご本尊があります。

迷宮のような羅漢堂

大龍寺の羅漢堂は、本堂と左右羅漢堂の三つで構成される複雑な構造。さながら迷宮のようです。五百羅漢を一度に見渡すのではなく、回廊を順路に沿って歩き、参拝者に羅漢の数の多さを実感してもらうためにこうした構造になっていると言われています。

来月は信長公

来月は覚王山縁(ゆかり)の戦国武将、織田信長公に関わりの深い法華寺をご紹介します。東区にある日蓮宗のお寺です。乞うご期待。