【第55号】尋盛寺と徳川家

皆さん、あけましておめでとうございます。かわら版も六年目に入りました。今年もご愛読、よろしくお願いいたします。今年のかわら版は覚王山周辺の寺社仏閣、名刹シリーズ。第一回は尋盛寺(じんせいじ)です。

(*)文中のかっこ内は参考号です。

京都・知恩院の末寺

尋盛寺は日泰寺奉安塔の東にある浄土宗のお寺。浄土宗の総本山は、高名な京都・知恩院。尋盛寺は知恩院の末寺になります。ご本尊は阿弥陀如来(第四十二号)。先月号でもお伝えしましたように、阿弥陀如来は今年の守り本尊です。是非、ご参拝ください。

浄土宗の開祖は法然。誰でも阿弥陀如来に帰依することによって極楽浄土に行くことができると説きました。

京姫と三葉葵

本堂内の仏具には三葉葵の紋がついています。ご存じのとおり、三葉葵は徳川家の家紋。水戸黄門(水戸藩主徳川光圀)の側近、助さん、格さんが、「えぇ~い、頭が高い。この紋どころが目に入らぬか」と言って掲げる印籠に刻まれているあの紋です。実は、尋盛寺の仏具は徳川家康公の孫である京姫(法名普峯院)が寄贈したもの。そのため、徳川家一門だけが使用を許されていた三葉葵が刻まれているのです。

家康公の「清洲越し」

ところで、尋盛寺は元々尋盛上人が清須(清洲)に建てたお寺。「清洲越し」によって、名古屋に移ってきました。

「清洲越し」とは、江戸幕府ができて間もない一六一〇年頃の清洲から名古屋への大がかりな引っ越しのことを指します。それまで、織田信長公が築いた清洲城周辺がこの地方の中心でしたが、家康公が海陸の交通が便利な名古屋に居城を築城。これにあわせて、武家屋敷や寺社仏閣、町家などが一斉に引っ越し。以来、現在の名古屋城周辺が尾張徳川家の城下町として発展することになりました。「清洲越し」で移転したお寺は百十と言われており、尋盛寺もそのひとつです。名古屋城の初代藩主は家康公の九男、徳川義直。そして、義直公の娘が京姫です。

「清洲越し」以来の山門

「清洲越し」の際に尋盛寺は白川に移りましたが、一九四二年(昭和一七年)、白川公園の造営に伴い覚王山に再度移築されました。もっとも、尋盛寺の山門は「清洲越し」以来のもの。一見の価値ありです。

尋盛寺には印鑑供養の印章塚もあります。印鑑は持ち主の分身という考え方から、使わなくなった印鑑を丁重に供養してくれるそうです。

平安仏教と鎌倉仏教

ところで、尋盛寺は浄土宗。来月以降にご紹介する名刹は、曹洞宗、黄檗宗、臨済宗など様々です。今年のかわら版では、これらの様々な宗派が、弘法大師空海の真言宗、伝教大師最澄の天台宗とどのような関係にあるのかも勉強してみます。平安時代に成立したのが真言宗と天台宗。平安仏教と言います。その後、鎌倉時代に主に天台宗から様々な宗派が誕生し、鎌倉仏教と呼ばれています。

一方、真言宗からは新しい宗派はあまり誕生せず、脈々と現在まで続いています。ご本尊は大日如来(第三十六号)。阿弥陀如来を含め、全ての仏様は大日如来の化身と説きます。

来月は相応寺

来月は相応寺をご紹介します。やはり浄土宗ですが、徳川義直公に関係の深いお寺です。乞うご期待。