【第15号】お彼岸は純国産 苦難の船出から千二百年目

皆さん、こんにちは。もうお彼岸になってしまいました。早いですねぇ。季節の変わり目ですので、健康にはくれぐれもご留意ください。

お彼岸は純国産

そのお彼岸ですが、秋分・春分の日をはさんで前後三日間が彼岸の期間になります。十三世紀に渡来した中国の大休和尚というお坊さんが、「日本国には春秋に彼岸という風習がある」と記録しています。お彼岸という風習は中国にもインドにもなく、日本固有のものです。純国産の習慣が仏教信仰と結びついて現在のかたちになったと言われています。ご存じでしたか。

苦難の船出から千二百年目

さて、弘法大師がはるばる唐の都・長安(現在の西安)をめざして海を渡ったのは804年(延暦23年)のことでした。今年は2003年ですから、ちょうど1200年目になります。

 弘法大師は国内で修行を続けていましたが、経典はインドの言葉であるサンスクリット語(梵語)で書かれていたほか、呪文や秘文について分からないことが多かったため、教義を学ぶために唐に渡ることを決意したのです。弘法大師、30歳の時でした。

口伝から始まった仏教の教え

仏教の教えを説くお経は非常にたくさんの種類があります。「八万四千の法門」という言い方もあり、正確にいくつのお経があるか分かりません。

お釈迦様(仏陀)はその教えを記録に残しませんでした。全て口伝(くでん)です。そこで、お釈迦様が亡くなった(入滅)後、500人の阿羅漢(あらかん=悟りを得た人)が集まり、教えを記録する作業が始まりました。しかし、お釈迦様は弟子の個性に合わせた教えを説いていたので、実に様々な経典が生まれ、以来、多くの内容に発展していったそうです。

弘法大師は、そうした教えの定義(教義)を学ぶために唐に渡りました。

覚王山霊場の開山は誰?

ところで、ここ覚王山の「日本最小の八十八カ所霊場」は誰が開山したのでしょうか。

記録によれば、明治42年、山下圓救師、伊藤萬蔵、花木助次郎、奥村新兵衛による勧進帳から始まったそうです。以後、大正初期にかけて八十八カ所が整備されました。

八十八カ所霊場がAからGの七地区に分かれていることは以前にご紹介しました。本堂から東に向かい、姫が池(放生池)通りを渡ってC地区からD地区に行く途中に、開山の祖、山下圓救師の墓所があります。是非一度、お参りしてください。

「空海と高野山」特別展覧会

 弘法大師入唐千二百年を記念して、愛知県美術館にて「空海と高野山」特別展覧会が開催されます。国宝21点と重要文化財96点が一堂に集結します。高野山の宝物の全容を紹介する初めての機会です。乞うご期待!

 開催期間 10月10日(金)~ 11月24日(月)

 場所 愛知県美術館(栄の県立芸術文化センター内)

 電話 971-5511