【第14号】以前の札所は一軒家? 観光客で溢れた「放生池」

残暑お見舞い申し上げます。先月26日、27日に行われました「覚王山夏祭」は天候にも恵まれ、たいへんな賑わいでした。事務局の皆さん、ボランティアの皆さん、出店者の皆さん、本当にお疲れ様でした。

以前の札所は一軒家?

先月の弘法さんの日に、日泰寺本堂東側のB地区をやや北へ歩いた所にある二二番札所で貴重なお話を伺うことができました。二二番札所は、今は大人2人が入れるくらいの小さな祠(ほこら)ですが、戦後間もない頃は八畳二間に台所も付いており、一時は一家五人が住んでいたそうです(かわら版第八号でお伝えしたことの事実確認ができました)。そのご家族は、今でもご恩返しとして札所の世話をされているそうです。

観光客で溢れた「放生池」

さて、二二番札所を北に進むと日泰寺の参拝者大駐車場があります。ここには以前「姫が池」という池がありましたが、別名「放生(ほうじょう)池」とも呼ばれていました。昔は観光名所であり、コイやフナが群れをなし、池の周辺には売店が軒を並べていました。かわら番編集部の面々も子供の頃は「放生池」で釣りやザリガニ捕りをしていました。

「放生」とは、捕らえられた魚や鳥を逃がしてやることです。人間は日頃の食生活や日常生活で多くの殺生(せっしょう)を行っていることから、功徳を積む意味で「放生」という考え方が生まれたそうです。起源は中国ですが、日本では天武天皇の命で始まったとも言われています。全国の寺院には「放生池」や「放生会(ほうじょうえ)」と呼ばれる縁日があります。

山号の歴史

ところで、覚王山が日泰寺の山号であることは以前にご紹介しました。お寺の名前に山号をつけるようになったのも、その起源は中国です。日本では、奈良時代の飛鳥寺でも法隆寺でも山号はなく寺名だけでした。

平安時代になって、最澄(伝教大師)や空海(弘法大師)が中国から帰国し、山中に寺を建てるようになって山号が普及したそうです。そして、比叡山延暦寺、高野山金剛峰寺の建立によって山号は完全に定着し、鎌倉時代には平地の寺まで山号をつけるようになったそうです。

新しい覚王山マップ完成!

新しい「覚王山マップ」が完成しました。新しいお店や情報が盛り沢山です。覚王山商店街の店頭や大塚耕平事務所にあります。ご自由にお持ち帰り下さい。覚王山周辺は、面白いお店や史跡がいっぱいです。名古屋の新しい観光名所となるように、今後とも日泰寺や日本最小の札所の話題をご紹介していきます。乞うご期待!