【第5号】どうして覚王山が塔廟の候補地に?

七月から「弘法さんの日」に配布させて頂いています「弘法さんかわら版」も第5号をお届けできるようになりました。たくさんの方が笑顔で受け取ってくださいますので、編集部も毎月21日が楽しみです。今後とも、ご愛読をよろしくお願い致します。「かわら版」のバックナンバー(過去の分)がご入用の方は、遠慮なく編集部(大塚耕平事務所・052-757-1955)までご連絡下さい。

さて、先月号までは、お釈迦様の骨(仏舎利)が名古屋の地にたどり着くまでの、先人たちの努力と、数々の苦難をお伝えしました。では、名古屋の中でも、どうして覚王山(当時の愛知郡東山村大字田代)が塔廟(仏舎利を正式に納める所)の候補地として適していたのでしょうか?

これまでの調査で分かった理由は二つあります。一つは、当時の東山村が、仏教と縁が深い地域だったからです。覚王山に代々住んでみえる方からお借りした「東山名勝」(大正十年発行)という資料によれば、当時の東山村は、東西を結ぶ法六字街道(鍋屋上野火葬場道)、南北に走る四観音道という2つの参拝道の交差点だったようです。

とくに四観音道は、「尾張四観音」と関係する重要な参拝道でした。「尾張四観音」とは、笠寺観音(南区)、荒子観音(中川区)、竜泉寺観音(守山区)、甚目寺観音(海部郡)の四観音を指します。徳川家康が名古屋城築城の際、城下町の鬼門の方角に位置した四観音を「名古屋城鎮護」と定め、結界を張って名古屋城を護ろうとしたことが「尾張四観音」の始まりです。

東山村を通っていた四観音道は、このうち笠寺と竜泉寺を結ぶ道です。現在の覚王山西交差点から北東に入る細い道(トリイ自転車さん裏)から松楓閣、日泰寺西、東山給水塔横を通り、現在の天満緑道につながる道だったそうです。今でも道の名前が地名に残っています。「かわら版・第2号」でお伝えした鉈薬師の前が「四観音道西」、日泰寺北の東山給水塔辺りを「四観音道東」と言います。今まで深く考えたことのなかった地名にも、「なるほどなぁ」とうなずかされます。また、「覚王山郵便局」から「丸山神社」へぬける道がその延長になります。

もう一つは、当時の東山村・加藤慶二村長の尽力によるものです。加藤村長は自らの私財を投じて誘致活動に奔走し、有志の協力も得て十数万坪以上の土地の寄進を実現しました。広大な寄進地を用意できたことが、誘致成功の鍵だったのではないでしょうか。加藤翁は村長を四期務め、地域の発展に献身的に尽くされ、日暹寺(にっせんじ=日泰寺)と東山(覚王山)興隆の多大な功労者だったそうです。古来から、寺院の誘致によって縁日を開き、参拝客に散財して頂くのは、地域経済にとって重要な景気対策だったそうです。加藤村長はそういうこともお考えだったのかもしれません。加藤村長、ありがとうございました!

その後の覚王山の賑わいは、今では想像できないほどだったと言います。日泰寺周辺の半径数百メートル以内に収まっているお手軽な「八十八ヶ所霊場巡り」が大人気で、その人気に目をつけた「弘法さん」の縁日との相乗効果(今風に言うとシナジー効果)も働いて、覚王山までの路面電車は大混雑、臨時電車を出してもさばき切れないほどだったそうです。

覚王山商店街の皆さん!覚王山に再び以前の賑わいがよみがえるよう、一緒に頑張りましょう!

次号は、覚王山界隈の地名の由来を探ります。おたのしみに。

参考資料:「東山名勝」「えーなも探偵団」「田代」他