候補地選びの大バトル!
皆さん、こんにちは。10月も後半になりました。早いもので、あと2ヶ月で年末ですね。今年はどんな年の瀬になるでしょうか。
さて、前号では、覚王殿建設地がなかなか決まらず、シャム国王やシャム駐在の外山公使から帝国仏教会がお叱りを受けたというところまでお話ししました。
慌てた帝国仏教会は、覚王殿を京都に建設することを「仮決議」しました。しかし、「是非、私たちの地元に!」という宗派がたくさんありましたので、各宗派は「仮決議」に納得せず、「仮決議」は事実上反故(ホゴ=白紙)にされました。何だか、公共工事や空港の誘致合戦みたいですね。
さて、こうした混乱の中で、有力候補地として頭角を表したのが名古屋市です。会員50余万人を擁する名古屋市の「御遺形奉安地選定期成同盟」が、熱心かつ強力な誘致運動を展開しました。多額の寄付金、建設用地、有志数百名の連署で帝国仏教会に請願書を提出したほか、愛知県知事、名古屋市長も帝国仏教会に書簡を送りました。シャム駐在の日本の公使や領事にも陳情を行い、外務省からも後押しされるようになりました。
決戦、建仁寺!!
明治35年12月(1902)、シャム国皇太子が日本を訪問することになり、帝国仏教会は、何とか皇太子訪日までに覚王殿建設地を決めることを迫られました。同年7月28日、急遽、京都で各宗派管長会が開かれ、大激論の末、建設候補地は名古屋と京都に絞り込まれました。各宗派は名古屋派、京都派に二分され、候補地は一本化できず、結局、11月12日に最終決定会議が開かれることとなりました。場所は京都市東山の建仁寺(京都最初の禅寺、臨済宗)、いよいよ「天下分け目の関ヶ原」という感じだったようです。
当時の記録によれば、建仁寺周辺は朝早くから殺気立ち(仏教の話にふさわしくないですね、この表現。でも、そんな感じだったようです)、今にも両派の大衝突が起きそうな様相を呈しました。午前中の会議では名古屋派が優勢であったため、午後の会議では京都派が採決方法に異議を申し立てましたが受け入れられず、会議をボイコットする事態になりました。そこで、残った委員で強行採決を行い(国会みたいですね)、37対1で、ついに覚王殿建設地は名古屋市に決定しました。
11月15日、仏舎利はただちに名古屋市に奉遷することになり、仮奉安所は門前町(大須)の万松寺になりました。当日の名古屋市内は、家々が仏旗(ぶっき)と軒燈を掲げ、万松寺までの奉迎行列は数10キロの長さに渡ったそうです。記録によれば、行列の荘厳さは筆舌に尽くし難く、まるで皇太子様のご成婚記念行列に匹敵するものであったと言います。ところで皆さん、仏旗をご覧になったことありますか(下図参照)。合計五色で彩られた美しい旗です。
翌明治36年(1903年)10月、名古屋市東区(現在の千種区)田代町で覚王殿造営が始まりました。翌年11月に仮本旗仏堂、玄関書院が落成しました。覚王山日泰寺はどの宗派にも属さない単立寺院で、今も創建当時の19宗派で共同運営されています。
でも、どうして覚王山?
次号では、名古屋市内の中でも、どうして現在の覚王山が選ばれたのかを調べてみたいと思います。
・参考資料 「菩提樹仏教夜話」(京都紫雲寺)
「覚王山秋祭」10月26日(土)27(日)開催!
日泰寺参道が「覚王山秋祭」会場に変身!今年はいろんなパフォーマー達が参道をねり歩き、来場者の皆さんや出店者の方を巻き込んで盛り上がります。開催時間10時~17時