日泰寺はもともと日暹寺(にっせんじ)
皆さん、こんにちは。暑い暑~い夏も過ぎ、九月の中旬になりましたが、いかがお過ごしですか。さて、日泰寺にお釈迦さまの骨(仏舎利=ぶっしゃり)が納められていること、その仏舎利は1898年(明治31年)にインドのピプラーワーというところで発見されたものであること、タイ王室がその仏舎利を日本に寄贈してくださったこと、仏舎利を祀るお寺をここ名古屋市に建設することが仏教界の相談で決まったことなどを、かわら版創刊号でお伝えしました。
ちなみに、日本への寄贈が決まった頃のタイは「シャム」と呼ばれていたことから、当時は覚王山日暹寺(かくのうざん・にっせんじ)と言ったそうです。
(「せん」という字は、「シャム」国の漢字表記です)。1932年(昭和7年)、「シャム」の国名がタイに変更されたことから、1941年(昭和16年)3月31日から覚王山日泰寺(かくおうざん・にったいじ)と改称されて、現在に至っています。
どうして名古屋市に?
でも、どうしてここ名古屋市がお寺の候補地となったのでしょうか。ちょっと調べてみました。1900年(明治33年)6月15日、タイのワットポー大寺院で仏舎利分与の式典が催され、日本から真宗大谷派の光演師(句仏上人)ほか四名が奉迎正使として出席しました。その後、正使一行は仏舎利とともに6月19日に帰国の途につき、7月11日に長崎に到着しました。同19日には仮奉安所に決められていた東山妙法院に納められました。さて、ここからが大変だったようです。
その時点では仏舎利を正式に納める塔廟(「覚王殿」=「覚王」はお釈迦さまの山号)の建設地は決まっていませんでした。候補地として話題になったのは、主に東京、京都、遠州三方ケ原などですが、各地で寄進を申し出る方々が続出し、ほかにも候補地はあったようです。
名古屋市が候補地になった経緯は正確には確認できていませんが、覚王殿の設計図製作を請け負ったのが名古屋市の伊藤満作氏であったことと関係があるようです。帝国仏教会は、正使一行がタイに渡っている間に伊藤氏に設計図製作を依頼し、仏舎利が長崎に到着した翌日、7月12日には縮尺1500分の1の設計図(第一稿)が完成していたといいます。
仏舎利到着後、1年以上経っても覚王殿建設地は確定せず、日本のタイ公使館の外山義文領事がそのことをタイ国王に報告したところ、国王は「まだ地所も決まっておりませんのか、早く建設資財を寄贈したいと思っておりますのに・・・」と大変ご機嫌が悪かったとのことです。
つづきは次号のお楽しみ!!
困った外山公使は、1901年(明治34年)11月26日、帝国仏教会の村田寂順師(会長)と前田誠節師(副会長)に、「一個人の約束と一国の国王との約束とでは重さが異なることをよくよく考慮し、日本仏教徒の恥辱にならぬよう、早急に対処されたい」という厳しい書簡を送りました。
さて、このつづきは次号のお楽しみです。ご期待ください。
・参考資料 「菩提樹仏教夜話」(京都紫雲寺)
★ 覚王山秋祭 10月26日(土)・27日(日)開催決定!
真夏の夏祭に続き、覚王山に「秋祭」がやって来ます。芸術の秋、食欲の秋を日泰寺参道で満喫してください。