十二月です。かわら版最終回です。脇街道及び街道周辺の寺社仏閣巡りも最後です。
二〇二二年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送していますが、今年は名古屋城下町を起点に広がる脇街道についてお伝えしてきました。最終回は常滑街道と知多街道です。
常滑街道=西浦街道
さて、街道の旅もいよいよ最後です。知多半島に向かいましょう。
古代、熱田から南東方向に笠寺、鳴海があり、概ね伊勢湾の海岸線に沿っていました。鳴海潟はまだ完全には陸地になっておらず、徐々に土砂が堆積し、中世から近世にかけて天白川が流れるようになります。
したがって、知多半島に行くには鳴海辺りから南に行く道に入りました。知多半島は西側が西浦、東側が東浦と呼ばれ、街道も西浦に向かう道と東浦に行く道に分かれます。
海岸線を西浦に沿って南下するのが常滑街道(西浦街道)です。東海道の鳴海八幡宮辺りから南西に向かい、大高を通ります。この辺りは桶狭間の戦いの舞台であり、街道沿いに鷲津砦や丸根砦があります。
名和、横須賀を通って常滑に向かいますが、常滑の直前に大野があります。ここには佐治一族が支配する大野城があり、織田信長の姪、つまり信長の妹お市の娘お江(小督)が四代佐治一成に嫁ぎました。お江は後に徳川秀忠の正室になり、家光を産んでいます。
常滑街道はさらに南下して知多半島の先端、師崎に着きます。常滑街道は知多半島を縦断する幹線道です。
半田街道=東浦街道
名和と横須賀の間で常滑街道から分かれ、知多半島を南西方向に斜めに進んで西浦の半田を目指すのが半田街道です。また大野から知多半島を横断して半田につながるのが大野街道です。
知多半島の付け根辺り、東海道と知多半島の間は道が縦横に繋がっていました。大高で常滑街道と分かれ、大府を通って緒川、半田を目指す道もありました。緒川道と言われ、東海道より少し北を通っていた鎌倉街道沿いの豊明までつながっています。
緒川道は鳴海八幡宮近くの前之輪から知多四国霊場一番札所曹源寺に向かう道でもあり、大師道とも呼ばれます。
東海道池鯉鮒宿から緒川につながる経路もあり、これらを総称して半田街道、東浦街道と呼んでいたようです。
緒川は戦国時代に織田勢と松平勢に挟まれた地域で、緒川城主水野忠政は娘の於大を松平八代の八代目広忠に嫁がせました。広忠と於大の間に産まれたのが家康です。
しかし、忠政を継いだ息子の信元、つまり於大の兄が織田方についたことから、於大は広忠に離縁され、阿久比(阿古居)城主久松俊勝に再嫁。俊勝と於大の間に産まれた息子たちは家康の家臣となって松平姓を名乗ります。
知多半島東岸を南下する東浦街道も師崎まで至ったことから、師崎街道とも呼ばれました。
東海道を宮宿から鳴海宿まで行ってから常滑街道に入るのに比べ、それより西側を直線的に短距離で知多半島西岸、つまり西浦に進むのが知多街道です。
常滑街道は鳴海宿から南西に進んだのに対し、知多街道は笠寺辺りから星崎、塩浜を通って南下しました。知多半島への近道と言えます。
一八四一年の尾張名所図会の笠寺の図の中で、笠寺から南に向かう道に知多郡道と記されています。知多街道は笠寺観音東の一里塚で東海道から分かれ、天白川、扇川を渡って、やがて常滑街道に合流しました。その後は大高の先で半田街道、師崎街道と道を共用し、亀崎、阿久比、武豊、美浜などを通って半島先端の師崎を目指します。
大浜街道、熱田道
知多街道が通った星崎には星崎城がありました。治承年間(一一七七~八一年)に始まる古城ですが、戦国期には城主山口重勝の娘が豊臣秀次の側室となり、秀次失脚に伴って一族も処断されてしまいます。
知多半島を南に縦断する道ばかりでなく、大高から東浦を通って、碧南、刈谷を経て大浜に行く横断道もありました。大浜街道です。
知多半島や東浦の対岸は、知多四国霊場や三河新四国霊場の遍路道であり、多くの古刹、名刹があります。
知多半島側では、鳴海八幡宮近くの前之輪から熱田へ向かう道を宮道、熱田道と呼んでいました。道中、天白川には橋がありましたが、扇川は「黒末の渡し」から渡し舟で渡りました。
前之輪から東海道に行くには、鳴海潟の小高い砂州の上を通る丸内(まるち)古道もありました。
おわり
二〇〇二年から、仏教や歴史の話をお伝えしてきましたかわら版は今日が最終回です。長い間のご愛顧、ありがとうございました。皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

