【Vol.570】ノーベル経済学賞

2022年末にChat GPTが登場して以来、生成AIの活用によって社会や産業が劇的に変わりつつあります。そんな中で、その背景を支えた、あるいはその動きを裏付けているとも言える経済理論の研究者がノーベル経済学賞を受賞しました。

1.モキイア教授の「創造的破壊」

今年のノーベル経済学賞は、米国のジョエル・モキイア教授(ノースウェスタン大学)、フランスのフィリップ・アギヨン教授(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)、カナダのピーター・ホーウィット教授(ブラウン大学、カナダ)の3人が受賞しました。

授賞式は例年通り、12月10日にスウェーデンのストックホルムで開催される予定です。

受賞理由は「イノベーションによる経済成長」の解明に関する研究で功績を挙げたことです。技術革新が「持続的な経済成長」をどのように促進するかを理論的に説明し、社会の発展における「創造的破壊の役割」を明らかにしました。

この受賞は、経済学におけるイノベーション研究の重要性を改めて示すものであり、現実の経済政策にも大きな影響を与えると期待されています。

3人のプロフィールをフォローしておきます。ジョエル・モキイア氏は79歳。オランダ生まれで、米国とイスラエルの二重国籍です。

所属はノースウェスタン大学で、専門分野は技術革新と経済成長の関係に重点を置いた経済史。歴史的資料を用いて長期的な経済の趨勢を分析する研究スタイルです。

技術進歩が持続的成長を生むためには、経験的知識だけでなく科学的説明が必要であることを示しました。

フィリップ・アギヨン氏は69歳。出身はフランス・パリ。パリ第1大学、ハーバード大学(PhD)などを経て、コレージュ・ド・フランスINSEAD(欧州経営大学院)、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に所属しています。

専門分野はイノベーション、経済成長、契約理論。代表的な業績は、3人目のピーター・ホーウィットと共に「シュンペーター型成長理論」を提唱したことです。

ピーター・ホーウィット氏は79歳。出身はカナダで、所属は米国ブラウン大学。専門分野はマクロ経済学、成長理論です。

代表的な業績は、アギヨン氏と共に「創造的破壊による持続的成長理論」を構築し、数理モデルを用いてイノベーションの経済的影響を定量化したことです。

3人はそれぞれ異なるアプローチで「イノベーションによる経済成長」のメカニズムを解明し、現代経済の持続可能性に対する理解を深めました。

基軸となるモキイア教授の理論は、技術革新と経済成長の関係を歴史的・文化的な視点から解明するもので、特に「成長の文化(A Culture of Growth)」という概念が特徴的です。以下、モキイア教授の理論の要点をまとめます。

第1は「有用な知識(Useful Knowledge)」の重要性です。科学と技術が相互に進化することで「有用な知識」となり、持続的な成長が可能になります。単なる経験的な技術だけではなく、「なぜそれが機能するのか」という科学的説明が不可欠と訴えています。

第2は「知識の文化化」。ちょっと難解ですが、産業革命がヨーロッパで起きた理由を「発明」や「資本蓄積」だけではなく、知識が社会全体で共有される文化的背景に求めました。科学者・職人・企業家・制度設計者(当局者)が連携し、知識を再利用し、進化させる仕組みが成長を促すと指摘しました。

第3は「制度と文化の役割」。技術革新が経済成長につながるには、柔軟で開放的な社会制度や社会の体質が必要と訴えています。知的財産の保護や教育制度などが、技術革新や新しい取り組みに対する社会における受容と拡散を支えます。

第4は「停滞からの脱却」。人類史の多くは停滞期と言えますが、近代以降に持続的成長が常態化した背景を分析し、成長は「当然のもの」ではなく、「創造的破壊」のメカニズムを生み出すこと、守ることが不可欠と指摘しています。

「創造的破壊」の考え方は、産業革命以降の科学技術の影響や、現代のAIや脱炭素技術などにも当てはまります。

2.2人の助っ人

アギヨン教授の理論は、他の2人の教授によって強化されました。言わば「2人の助っ人」です。2人はモキイア教授の「技術革新と経済成長の関係」に関する理論を、より動態的かつ政策的な視点から補完・補強しました。

1人目のアギヨン教授の補完・補強ポイントの第1は「数理モデルによる理論化」です。モキイア教授の歴史的・文化的分析を「内生的成長理論(Endogenous Growth Theory)」として数理モデル化しました。

そして、技術革新が企業間競争によって促進されることを示し、「創造的破壊(Creative Destruction)」のメカニズムを理論化しました。

ポイントの第2は「政策への応用」です。モキイア教授が示した「知識の文化」を、教育・研究開発・知的財産制度などの政策に具体的に落とし込むことを提唱しました。

技術革新、イノベーションを促進するための具体的な政策提言を行うことで、理論を実践的に展開したのです。

ポイントの第3は「不平等や雇用への影響分析」。技術革新がもたらす社会的影響(雇用の喪失や格差拡大)についても分析し、モキイア教授が示した「成長の文化」が持続可能であるためには、そうした社会的影響を緩和する包摂的な制度設計が必要であることを指摘しました。

ポイントの第4は「現代資本主義への応用」です。モキイア教授の理論を土台に、現代の資本主義が直面する課題(停滞、不平等、環境)に対する処方箋を提示しました。

つまり、モキイア教授が「なぜ技術革新が経済成長につながるのか」を歴史的に示したのに対し、アギヨン教授は「どうすれば技術革新を持続的な経済成長につなげるか」を理論的・政策的に展開したと言えます。

もう1人のホーウィット教授は、モキイア教授の「産業的啓蒙主義」や「有用な知識」に基づく歴史的・文化的な経済成長理論を、マクロ経済学的かつ数理的な視点から補完・補強しました。

ホーウィット教授の補完・補強の第1のポイントは「内生的成長理論の構築」です。アギヨン教授とともに、「創造的破壊」を中心とした内生的成長モデルを構築しました。

モキイア教授が示した「知識の拡散と制度の役割」を、企業の競争と技術革新の数理モデルに落とし込みました。

ポイントの第2は「技術革新の動態的メカニズムの解明」です。技術革新がどのように経済成長を生むかを、企業の参入・退出、研究開発投資、知的財産制度などの要素を用いて定量的に分析しました。

ポイントの第3は「マクロ経済学への応用」です。ケインズとシュムペーターの理論を再評価し、モキイア教授の歴史的視点を現代のマクロ経済理論に接続しました。

具体的には、技術変化と経済成長の関係を、貨幣・市場・企業行動といったマクロ的要素と統合しました。

つまり、ホーウィット教授はモキイア教授の理論を「歴史的・文化的な背景」から「現代の経済モデルと政策設計」へと橋渡しする役割を果たしました。

ホーウィット教授の数理的なアプローチにより、モキイア教授の理論が実証性と政策応用力を獲得したと言えます。

3.ノーベル経済学賞

ところで、ノーベル賞はダイナマイトの発明者であるスウェーデン人、アルフレッド・ノーベル(1833~96年)の遺産と遺言によって1895年に創設され、1901年に最初の授与式が行われました。

当初は自然科学中心でしたが、今では物理学、化学、医学・生理学に加え、文学、平和、経済学の6分野で選考・授与されています。

その中で、経済学賞は他の5つの分野とは位置づけが異なります。最も新しく、歴史が浅い賞です。

1968年にスウェーデン国立銀行が創立300周年事業の一環としてノーベル財団に働きかけて創設されました。正式名称は「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞」ですが、一般的にはノーベル経済学賞と呼ばれています。

経済成長や市場理論を重んじるシカゴ学派と関係が深いアーサー・リンドベック氏が選考に長く影響を与えてきました 。その結果、受賞者はシカゴ学派の系譜に属する学者に偏っており、シカゴ学派的な理論と政策の権威づけと正当性の根拠に利用されているとの批判がありました。因みに、シカゴ学派はデリバティブ取引等に関する金融工学の牙城です。

以上の経緯から「経済学賞はノーベル賞ではない」という指摘もありました。たしかに、経済学賞はノーベルの遺書には記載されていません。そのため、賞金はノーベル基金ではなくスウェーデン国立銀行から拠出され、ノーベル財団関係者が公式に経済学賞のことを話す時には「ノーベル賞」という呼称を使わないそうです。

しかし、選考や授賞式などの諸行事は他の5部門と合同で実施されているほか、選考もスウェーデン王立科学アカデミーが行っており、一般的には経済学賞も「ノーベル賞」として理解されています。

ノーベル経済学賞に関するこの葛藤は、人間や学問の本質に関する重要な難問を示唆しています。化学賞、物理学賞、医学・生理学賞は自然科学が対象であり、真実や答えが明確です。そのため、賞の評価も客観性が担保されています。

一方、人文科学や社会科学の答えは唯一無二ではありません。つまり、評価が分かれます。したがって、平和賞、文学賞、経済学賞は評価が難しいと言えます。

例えば、平和賞が典型です。平和とは何かは一見明らかなようにも思えますが、ノーベル平和賞を巡る現実と対立を考えると困難さが容易に想像できます。

米国のオバマ大統領は「核なき世界」を訴えて2009年のノーベル平和賞を受賞しました。その一方、オバマ大統領は歴代大統領の中で任期中の核弾頭削減数が一番少なく、臨界前核実験も行いました。包括的核実験禁止条約の批准も行おうとしませんでした。

2015年から新型核爆弾「B61 12型」を飛行中の爆撃機から投下する実験を開始し、2016年には、今後30年間で1兆ドルを投じる核兵器全面更新計画を承認しました。つまり、オバマ大統領は「核なき世界」を訴える一方で核軍拡を進めてきたと言えます。

中国の人権活動家、劉暁波(1955~2017年)氏は2010年にノーベル平和賞を受賞しました。

一方、中国国内では同年、「国家政権転覆扇動罪」による懲役11年及び政治的権利剥奪2年の判決が下されて服役。中国政府は劉のノーベル平和賞受賞を批判するとともに、劉氏を評価する各国政府やノーベル財団に抗議。

ノーベル平和賞は欧米諸国に政治的に使われており、内政干渉によって中国社会の分断を画策していると反発していました。

文学賞は多くの読者を惹きつけたという事実があれば、平和賞ほど難しさを伴わないかもしれません。しかし、多くの読者を惹きつけた客観的事実をどのように認定するのかということも、容易ではありません。書籍の販売数なのか、感銘を受けた読者の質を問うのか。平和賞とは別の難しさがあります。

経済学賞は平和賞や文化賞と比べると、さらに厄介な性質を有しています。それは、経済学が「社会科学の女王」と呼ばれるからです。

自然科学と社会科学の違いは客観的法則性の有無です。法則性とは、客観的事実としてほとんどの人に受け入れられる性質と言いかえてよいでしょう。

経済学が「社会科学の女王」と呼ばれるのは、文学や哲学等の他の人文科学、社会科学と比較し、客観的法則性が強い点に着目したことによるものです。

例えば、ある国の経済規模はGDP(国内総生産)で計測することができ、そのGDPは、消費、投資、政府支出、純輸出(輸出から輸入を控除したもの)の4つから構成されるといったことです。

たしかに「ある部分」までは客観的法則性を共有できるのが経済学です。とは言え、「ある部分」を越えたところでは立場によって意見が分かれます。「ある部分」までは客観的法則性がある一方、「ある部分」を越えたところでの研究活動がノーベル賞の受賞対象となる点に経済学賞を巡る問題が存在します。

しかも、「社会科学の女王」という冠を得ているだけに、受賞対象の研究や理論が客観的法則性を保証されたかの如く広く世界に伝わり、あるいはそのように認識される点に問題があります。

ノーベル賞は「人類に多大な貢献」をしたことが授賞基準です。そもそも経済学がその対象足り得るか否かについては論争があります。経済学は価値観を伴います。「人類に多大な貢献」をしたか否かの評価は簡単ではありません。

自然科学は実用に供しますが、経済学はその点が微妙です。例えば、シカゴ学派的な理論や政策が「人類に多大な貢献」をしたか否かについては意見が分かれるところです。累次に亘るバブルの発生と崩壊を助長しているに過ぎないとの批判もあります。

初期の頃は受賞者自身がこの点を指摘していました。1974年の受賞者フリードリヒ・ハイエク(1899~1992年)は、ノーベル賞は経済学には不適当であり、自然科学なら評価が客観的だが、経済学は政治家やジャーナリスト、官僚などに利用され、不当に持て囃されるリスクがあるという趣旨の発言をしています 。

シカゴ学派が金融工学の牙城であることも影響し、ノーベル家、ノーベル財団、スウェーデン王立科学アカデミー等の関係者の間では、「授賞対象の理論は抽象的で現実世界と乖離している」「人間生活の向上とは異質である」という指摘や、「経済学賞は厳密にはノーベル賞ではなく、名称を変えるべき」との意見もあります。

ノーベル経済学賞を巡るこうした葛藤の中で異彩を放ったのがアジア人で初の受賞者アマルティア・センでした。

不平等、飢餓や貧困等に関する研究が評価され、他の多くの受賞者が市場理論、計量理論、金融工学等の研究によって受賞したのと比べ、異質でした。しかも、センが元々はそうした分野の一流の研究者であったことが大きな意味を有します。

因みに、アジア人で初めてノーベル賞を受賞したのは文学賞のラビンドラナート・タゴール。やはりインド人で、アマルティア・センの親戚です。

さて、経済学は人間社会の問題に対して適切な処方箋を示し、「人類に多大な貢献」をできるのでしょうか。

(了)