【第278号】志段味古墳群と味美古墳群

八月です。今年の夏も酷暑です。くれぐれもご自愛ください。
二〇二二年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送していますが、今年は名古屋城下町を起点に広がる脇街道についてお伝えします。今月は下街道沿いの史跡、志段味古墳群と味美古墳群です。

志段味古墳群と味美古墳群

犬山界隈から南の熱田にかけての一帯に散在する古墳群を訪ねてみましょう。

下街道の経路に当たる春日井、守山は、早くから人々が住み始めた地域です。

春日井の縄文遺跡である篠木遺跡では約五千年前に土器が作られていた痕跡が残っています。紀元前後には庄内川沿いで米作りも始まります。

二世紀頃には銅鐸が使われており、その後春日井の味美一帯に多くの古墳を造られるようになります。中でも六世紀初の二子山古墳は大規模な前方後円墳です。

律令制の下で春日部郡、春日部荘が誕生し、条里制の集落と荘園ができました。近隣には社寺が建立されます。古代には内々神社が誕生し、七二二年に円福寺が創建されました。一二六四年に地蔵寺、一三二八年に密蔵院、一四八六年に泰岳寺と、この地域の古刹が創建されていきます。

下街道沿いには複数の古墳群があります。四世紀後半築造と推定される白鳥塚古墳は守山にある志段味古墳群のひとつです。前方後円墳頂上部の葺石に白色珪石が使われていたことから白鳥塚と呼ばれるようになり、尾張名所図会には「白鳥山」と記されています。

味美古墳群と味鋺古墳群

志段味古墳群の西には春日井の味美古墳群があります。尾張有数の規模を誇る二子山古墳をはじめ、白山神社古墳、御旅所古墳、春日山古墳など十数基からなる古墳群です。

その南、味鋺神社周辺にも味鋺古墳群があります。周辺は「百塚」と呼ばれるほど古墳が多かった一帯です。

味鋺古墳群では、前方後円墳が白山薮古墳、味鋺大塚古墳、味鋺長塚古墳の三つ。円墳が岩屋堂古墳、伊勢山古墳です。また、その他に無名塚を含めた二十四基の塚が古墳と思われます。

大規模な古墳群の存在は被葬者と大和王権の結びつきを示します。六世紀初頭の二十六代継体天皇の即位に尾張氏は大きな役割を果たし、二子山古墳は継体天皇陵と伝わる今城塚古墳と二分の一の相似形をなしています。

犬山の東之宮古墳、青塚古墳群、その南の志段味古墳群、味美古墳群、味鋺古墳群と連なります。さらに南下すると名古屋東部古墳群を経て熱田古墳群に至ります。

この南北の線上は、古代において、木曽川の氾濫原や伊勢湾の海岸線にかからない地域であり、かつ東部丘陵地帯の台地上、あるいは麓にあたり、大和王権とつながる尾張氏が居住し、集落を形成していった地域と考えられます。

下街道沿いの寺社仏閣

早くから人々が住み、豊かだったこの地域には、社寺が築かれ、織田氏、豊臣氏、徳川氏との由来話も残ります。

内々神社は景行天皇時代創建の古社です。東国平定を終えた日本武尊が内津峠を行軍時に、早馬で駆けてきた従者から副将軍建稲種命が亡くなったとの報告を受けて「ああ現哉々々(うつつかな)」と嘆き、建稲種命を祀ったのが始まりです。一五七五年に焼失したものの、豊臣秀吉が再建しました。

内津峠を越える道が下街道です。名古屋城下と中山道を結ぶ往還道として賑わい、内津は宿場町でもありました。

一三二八年開創の密蔵院は、十五世紀半ばに最盛期を迎え、塔頭三十六坊の七堂伽藍、学徒三千人超、末寺は尾張、美濃を中心に十一ヶ国七百ヶ寺に及ぶ大寺院でした。天台宗の中心であったため、織田信長が延暦寺と敵対した影響で衰退しますが、江戸時代に住職珍祐が名古屋城三之丸東照宮の別当になったことから、再興します。

瑞雲寺は一四二九年創建です。織田信長の父である信秀が寺領を寄進して繁栄しました。一五八四年、小牧長久手の戦いで火災に遭いますが、江戸時代に復興されます。

林昌寺の創建時期は不明ですが、梵鐘は一四八九年に造られたものです。天正年間(一五七三~八九年)に織田信雄が父信長の大法会を清洲総見院で行った際、熱田にあったこの梵鐘を総見院に納め、後に林昌寺に移されたと伝わります。

一五五二年創建の林昌院には、桶狭間の戦いの際に織田信長が戦勝祈願を命じました。一六六三年、尾張藩祖義直が奉安した秋葉権現を祀るようになります。

麟慶寺は一五九六年の開山です。当初は三台寺と称し、後に慶林庵となり、一七二六年に麟慶寺に改称しました。麟慶寺は木曾御嶽山を開いた覚明行者の菩提寺です。

覚明行者は一七一八年、春日井荘の生まれです。春日井荘を通る下街道は木曽御嶽山にも通じることから、この地域では江戸時代に御嶽講が広がりました。玉野御嶽神社をはじめ、御嶽神社が複数あります。

水野街道と定光寺

来月は水野街道と定光寺についてお伝えします。乞ご期待。