皆さん、こんにちは。春から初夏に向かう季節ですが、朝晩は寒い日もあります。くれぐれもご自愛ください。

かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。

プロ野球も開幕しましたが、早々に優勝戦線から脱落するチームのファンには何とも淋しいシーズンになります。「脱落」は文字通り「脱(ぬ)け落ちること」ですが、この「脱落」も仏教用語です。

仏教、とりわけ禅宗では「あらゆる自我意識を捨ててしまうこと」を意味する「身心脱落(しんじんだつらく)」という言葉があります。宗に渡って修行していた道元は、この言葉で覚りを開いたといいます。

宗に留学中の道元の先生(お師匠様)は如浄(にょじょう)という高僧でした。道元は修行の末に自我意識が自分のからだから離脱した感覚を得たことを報告したところ、如浄師は「身心脱落、身心脱落」と言って、道元が覚りを開いたことを認めたと伝わります。

日本に帰国後、道元は自著「正法眼蔵」に次のように記しました。曰く「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に証せらるるなり。萬法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」

意訳すれば次のようになります。「仏道修行は『自分とは何者か』を明らかにすることであり、それは自我意識を捨てることであり、それによって自分も他者も一体であることを覚ることである」というような感じです。

日常会話的には「心身(しんしん)」と濁らないで「心」「身」という順で書くのが一般的ですが、道元の「身心(しんじん)」は「し」が濁るうえに「身」「心」の順に書きます。

平安時代中期の仏教説話集「三宝絵」には漢字表記として「心身」も「身心」も両方登場しますので、「心身」「身心」の使い分けはなかなか難しいですね。

近年になって、如浄は実は「心塵脱落」と言ったのではないかという説も出てきました。中国語の「身心」も「心塵」も発音が似ているので、道元が聞き違えたという説です。

たしかに、お釈迦様の教えとしては「修行によって心の塵(ちり)を払い落とす」ということは理に適っていますので、「心塵脱落」でも意味は通じます。

「身心」「心身」「心塵」のいずれであったとしても、修行によって心の塵を払い落とし、自分という存在は大自然の中の一部であり、自我意識は自分の思い込みに過ぎず、自分であると思っているものから身(からだ)と心(精神)を取り除いたあとに残るものが人間の本質であるという、お釈迦様の教えを覚ったのが道元です。

では、どうやって「身心脱落」するか、どうやってその境地に至るか、という修行方法のひとつが「只管打坐(しかんたざ<ただひたすら坐禅すること>)」です。只管打坐により、「身心脱落」させ、心の塵を払いたいものですね。

ではまた来月。