【第277号】犬山城と東之宮古墳

七月になりました。夏本番ですので、くれぐれもご自愛ください。

二〇二二年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送していますが、今年は名古屋城下町を起点に広がる脇街道に絡む話をお伝えします。今月は犬山城と東之宮古墳です。

犬山城の変遷

上街道、下街道を北上すると、木曽川沿いの断崖上に白亜三層の犬山城が見えます。犬山城は亀甲城とか白帝城とも呼ばれます。白帝城については、荻生徂徠が李白の詩に登場する長江上流の城に因んで名付けたと伝わります。

一四六九年、応仁の乱の最中に岩倉織田氏当主織田敏広の弟広近がこの地に砦を築いたのが始まりです。

一五三七年、清洲三奉行のひとり、織田信秀(信長父)の弟信康が、広近の砦を平山城に改修して移りました。

一五四四年、信康が斎藤道三との戦い(加納口の戦い)で討死し、子の信清が城主となりました。信清は一五五八年の浮野の戦いで信長を支援して岩倉織田氏を滅ぼしました。

その後、岩倉織田氏旧領の分与を巡って信長と対立し、一五六四年、信長に攻められて犬山城は陥落しました。

犬山城には信長家臣の池田恒興や織田勝長などが入城し、一五八二年、本能寺の変後は、信長の次男信雄配下の中川定成が城主となります。

一五八四年、小牧長久手の戦いでは、信雄方と見られていた大垣城主池田恒興が秀吉側に寝返って奇襲をかけて犬山城を奪取。秀吉は犬山城に本陣を置いて小牧山城の徳川家康・織田信雄連合軍と対峙しました。

戦後、一五八七年に織田信雄に返還されましたが、一五九〇年、信雄が転封を拒んで改易されると犬山城は豊臣秀次の配下となり、秀次の父三好吉房が城代を務めました。一五九六年、秀次が切腹すると石川貞清が城主となります。

一六〇〇年、関ヶ原の戦いでは岐阜城とともに西軍の拠点となったものの、岐阜城が陥落すると東軍に移りました。

一六〇一年、清洲藩主松平忠吉の御付家老小笠原吉次が城主となり、江戸時代を迎えます。

一六〇七年、徳川十六神将のひとり平岩親吉が入城。親吉は嫡子のないまま亡くなったことから、一六一七年、尾張藩御付家老の成瀬正成が城主となり、以後、江戸時代を通して成瀬氏九代の居城となりました。

成瀬家七代正壽がオランダ商館長と親しかったことから、天守最上階に絨毯を敷いたと伝わります。

小高い丘陵を利用した山城と平城の中間型の平山城で、城下町は成瀬氏が城の南側に造りました。城下に入る木戸は六ヶ所に設けられ、外側に武家屋敷を配置する町割は名古屋城下町と同じ構造です。防衛のための丁字型や鉤型の街路を備えた城下町が形成されました。

楽田城の殿守

小牧山城と犬山城の間には楽田城もありました。永正年間(一五〇四~二一年)に尾張守護代織田久長が築城し、一五五八年、浮野の戦いで信長とともに岩倉織田氏を下した犬山城主信康に攻略され、信康の出城となりました。

しかし、信康が信長と離反して犬山城を追われると、楽田城にも信長配下の武将が入城します。その後、小牧長久手の戦いでは秀吉の陣所が置かれ、戦後に廃城となります。

江戸時代初期の尾張の軍学者小瀬甫庵の遺老物語に、一五五八年に楽田城に殿守(天守)が築かれたと記されています。楽田城は、殿守と呼ばれる櫓を構築したことが文献上で確認できる最初の城です。

寂光院・大縣神社・東之宮古墳

犬山城の北東、木曽川の東岸に寂光院があります。六五四年に孝徳天皇の勅願によって創建された古刹です。

信清を下して尾張を制した信長は、一五六五年、寂光院を参拝し、清洲城の鬼門鎮護のために寄進しました。

犬山城と小牧山城の間にある楽田城の東には大縣神社があります。社伝によれば創建は垂仁天皇27年に遡る古社です。式内社で尾張国二宮です。

祭神は大縣大神(おおあがたのおおかみ)で尾張国開拓の祖神とされます。

犬山城と寂光院の間にある白山平山の山頂に東之宮古墳があります。尾張国で最古、最大の前方後円墳です。

古墳の主軸上に巨岩が乗っており、冬至の日にこの巨岩上から陽が上ります。埋葬者は古代尾張氏の族長と考えられます。

楽田城から大縣神社を挟んだ西側、犬山城の真南には、青塚古墳もあります。周辺には十数基の古墳があり、青塚古墳群と呼ばれます。

古代、伊勢湾の海岸線が木曽川中流域に位置していた時代には、畿内から来た大王家に近い尾張氏一族は尾張北部から美濃にかけて居住していたと考えられます。

尾張氏の古(いにしえ)を感じさせる犬山周辺の古墳群、社寺群です。

志段味古墳群と味美古墳群

来月は佐屋街道の北側を通る志段味古墳群と味美古墳群についてお伝えします。乞ご期待。

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