政治経済レポート:OKマガジン(Vol.355)2016.3.19

米国では大統領選挙予備選がヒートアップ。「民主党」はクリントン、「共和党」はトランプが有力ですが、かつてトランプは「民主党」の有力支持者。諸行無常ですね。日本では「民主党」が党名変更で「民進党」になることが決定。政党の歴史を振り返りつつ、日本の民主主義を熟考します。


1.超然主義と立憲主義

もともと、日本語における「党」とは、中世における武士集団を指す言葉だったようです。例えば、武蔵七党(むさししちとう)。

平安・鎌倉・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野・上野・相模を支配した同族的(血族的)武士団の総称です。

武蔵七党の構成は、横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党、児玉党、丹党など。ほかにも諸説ありますが、時代とともに変化しているようです。

もうひとつ例をあげれば、松浦党(まつらとう)。平安時代から戦国時代に肥前松浦地方で組織された武士団連合。水軍を含む複数血族から形成され、松浦四十八党とも呼ばれました。

中世の書物に「徒党」という言葉が登場。「徒党」は何かを行うことを目的に集まること。ここにも「党」の語源が垣間見えます。「徒党」の「徒」は「疎か」「粗略」というような意味。「徒党を組んで謀反を起こす」等の記述が見られます。

時代は下って幕末。欧米列強諸国に開国を迫られた日本。各藩内部で攘夷か開国かを巡って紛糾。「土佐勤王党」など、各藩内部に「党」派が勃興しました。

福澤諭吉(中津藩士)は1860年、日米修好通商条約使節団の護衛の一員として咸臨丸で渡米。1862年、今度は幕府使節団の一員として渡欧。それぞれ幕命で渡航しています。

帰国後の諭吉が1863年に著した「西洋事情」。英国議会を傍聴した際、議会内で激しく論戦していた対立「党」議員が議場外で談笑していることに驚き、日本の「党」と英国議会の「党」の違いに驚いた旨が記されています。西洋の政治制度を知り、「党」の概念が変貌します。

福沢が欧米の状況を紹介した「西洋事情」は、1866年に3冊、再渡米(1867年)後の1868年(明治元年)に3冊、1870年(明治3年)に4冊の計10冊が刊行されました。

その内容は政治、税制、通貨、企業、外交、軍事、科学技術(蒸気機関、電信機、ガス燈)、学校、図書館、新聞、病院など多岐に及び、政府や多くの有識者に影響を与えました。

例えば政治については、君主政、貴族政、共和政の違いを紹介し、英国ではこれらを組み合わせていると記しています。

さらに、自由の保障、宗教への不介入、技術文学振興、人材教育、産業振興、病人と貧民の救済が文明国の6つの要諦と指摘。また、王族の婚姻や通商による国家間の関係構築、戦争防止のための条約締結と大使の相互派遣という近代外交の慣行も紹介。

明治6年政変(征韓論政変)で下野した板垣退助(土佐藩士)らは、1874年(明治7年)、「愛国公党」を結成。政府に対し「民撰議院設立建白書」を提出。議会制度に依らない薩長藩閥による政権運営に対する批判が自由民権運動となっていきます。

全国各地に政治結社が結成され、一部は急進化して不平士族と結びつき、内乱に発展。しかし、1877年(明治10年)の西南戦争で不平士族が敗北。武力による反政府活動から言論闘争に変わっていきます。

自由民権運動の勃興に対し、1881年(明治14年)、明治天皇による「国会開設勅諭」を契機に、明治政府は国民に対して議会開設を約束。

これに伴い、同年、板垣退助らが「自由党」を、翌1882年(明治15年)に大隈重信(佐賀藩士)らが「立憲改進党」を、福地源一郎(幕臣)ら親政府派が「立憲帝政党」を結党。

以後、政府の「超然主義」と国民の「立憲主義」が対立軸となりながら、太政官政治から議会制政治へと進化。なお、「超然主義」とは、国民の主張を無視し、政府が勝手に政治を司る、言わば「独善主義」。その光景、つい最近もどこかで見たような気がします。

2.吏党と民党

1889年(明治22年)、大日本帝国憲法が公布され、25歳以上、納税15円以上の男子に選挙権が付与されました。

翌1890年(明治23年)、第1回総選挙(衆議院議員選挙)が実施され、「立憲自由党」「立憲改進党」などの「民党」が反民党勢力すなわち親政府勢力の「吏党(りとう)」よりも多くの当選者を出しました。

因みに、日本では地方議会の方が先に誕生。2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」に登場した会津藩士・山本覚馬は1879年(明治12年)の第1回京都府議会議員選挙で当選し、議長に就任。地方議会は帝国議会(国会)よりも10年以上早くスタートしています。

「吏党」は帝国議会初期において政府寄りの姿勢を示した政党のこと。自由民権運動を継承した「民党」側からの蔑称であり、当事者は「温和派(おんわは)」と自称。経緯は以下のとおりです。

帝国議会開設に触発されて自由民権運動から生まれた諸派が団結し、「立憲自由党」「立憲改進党」を創設。

保守派も対抗し、第1回帝国議会(1890年<明治23年>)直後に「大成会」を設立。自由民権運動派が「大成会」を批判的に「吏党」と呼んだのが始まりです。

「吏党」という言葉の発案者は中江兆民(土佐藩士)。第1回総選挙の当選者でもある中江は、フランスの思想家ルソーを日本へ紹介した自由民権運動の理論的指導者でした。

「大成会」はやがて院内会派「中央交渉部」に変化。さらに1892年(明治25年)、佐々友房(肥後藩士)、品川弥二郎(長州藩士、松下村塾生)らが「国民協会」を結成。

しかし、国粋主義や条約改正等を巡って「国民協会」内部でも反政府的主張を行う者が出る一方、「民党」の中核「自由党」の中にも政府に接近する者が出て、「吏党」「民党」は必ずしも「親政府」「反政府」と特徴づけることができなくなりました。

具体的には、「国民協会」が「帝国党」に移行した際、一部が「自由党」の後継である「憲政党」や藩閥官僚とともに「立憲政友会」を結成。対抗勢力は「立憲同志会」さらに「憲政会」に発展。

この段階で「吏党」「民党」という呼称は消滅。代わって「与党」「野党」という言葉が登場します。「与党」は政府を構成し、行政を与(あずか)る、与(くみ)する政党、「野党」は政府を構成せず、行政を担わない在野(ざいや)の政党を意味します。

政府は当初、議会や政党を軽視。「超然主義」です。しかし、大日本帝国憲法が政府決定に議会承認を要する仕組みを明文化。憲法の拘束の意味に気づいた政府は、選挙への干渉、金銭買収、ポスト提示などによって議会関係者、政党関係者を懐柔。これもどこかで聞いたような話です。

さて、ここまで書くと、近代政治史を少々整理したくなりました。ポイントのみ列挙します。お付き合いください。

明治中頃(1898年<明治31年>)、第3次伊藤博文内閣が軍拡目的の増税(地租増徴)を企図。「自由党」と「進歩党」が猛反発。両党は合流して「憲政党」を結成。伊藤内閣は退陣し、日本初の政党内閣、大隈重信内閣が成立。

しかし「憲政党」の内部対立によって大隈内閣は4ヶ月で崩壊、第2次山縣有朋内閣が成立。山縣内閣は増税、軍拡を実現すると同時に、政党の影響力弱体化を企図して治安警察法や軍部大臣現役武官制などを施行。

伊藤は政党の必要性を再認識。「憲政党」と開明派官僚を糾合して「立憲政友会」を創設して初代総裁に就任し、第4次伊藤内閣を組閣(1900年<明治33年>)。危機感を感じた山縣は明治天皇に進言して伊藤を枢密院議長に祭り上げ、「立憲政友会」総裁を辞任させました。

「立憲政友会」は西園寺公望を第2代総裁に選出。西園寺と山縣門下の桂太郎(陸軍大将)が交互に政権を担当する「桂園時代」に入りました。

大正中頃の1918年(大正7年)、本格的政党内閣である原敬内閣が誕生。その後も、高橋是清内閣、加藤高明内閣と政党内閣が連続。加藤内閣は男子普通選挙制を実現する一方で、治安維持法も成立させました。

昭和に入り、若槻禮次郎内閣、田中義一内閣、濱口雄幸内閣はそれぞれ「憲政会」「立憲政友会」「立憲民政党」を母体とした政党内閣。

若槻内閣、濱口内閣は協調外交を推進して軍国化を阻止しようとしましたが、経済失政や軍縮への国民や軍部からの批判に晒されて退陣。

田中内閣は昭和恐慌への対応では成功を収めた一方、対中国強硬外交を推進。陸軍暴走を助長し、張作霖爆殺事件における陸軍への甘い対応によって昭和天皇の信任を失い、退陣。

1932年(昭和7年)、日本の孤立化を懸念して満州国樹立に抵抗した犬養毅首相が軍部によって暗殺され(5・15事件)、戦前の政党内閣は終焉。同年には血盟団事件も起き、以後、軍人内閣時代に突入。

政党内部にも軍部に呼応する動きが顕現化し、1940年(昭和15年)、政党は大政翼賛会に合流。そして、太平洋戦争が始まり、敗戦。

戦後、政党政治が復活。紆余曲折を経て、1955年(昭和30年)、「日本民主党」と「自由党」が合流して「自由民主党」が誕生。対抗政党として「社会党」がありましたが、総選挙は中選挙区制であったため、政権交代は起きず、万年与党と万年野党でした。

1993年(平成5年)、小選挙区制導入を巡る混迷の末、非自民の細川護煕内閣が誕生。再び「自民党」政権に戻るものの、1996年(平成8年)、小選挙区が導入され、2009年(平成21年)、本格的な政権交代が実現。「民主党」政権が誕生しました。

2012年(平成24年)、再び「自民党」が政権復帰。2016年(平成28年)、「民主党」と他の野党は紆余曲折を経て、「民進党」を結成。

さて、日本は再び同じ政党が長く政権を担う時代となるのか、それとも時に政権交代が起きる新陳代謝の高い政治が定着するのか。分岐点に来ています。

3.ゲリマンダー

民主主義国では、与党が「ゲリマンダー(恣意的な選挙区割り)」を行って野党に不利な選挙制度が構築されることがあります。一票の格差是正や選挙制度改革に不熱心な場合には、その疑念があります。

「ゲリマンダー」発祥の地は米国。小選挙区制の米国では、選挙区割りは原則として州法で規定。州議会議員選挙のみならず、連邦下院議員選挙の区割りも州法が規定。そのため、州政界の事情によって「ゲリマンダー」が発生します。

米国では民族や人種、生活水準(所得階級)の違いで居住地域が分かれる傾向があり、その違いは投票傾向にも反映されます。そのため地域と投票行動に相関性があり、選挙区割りを操作することによって投票結果を誘導することが可能になります。そのため、選挙区が歪(いびつ)で異様な形状になる場合があります。

「ゲリマンダー」の手法にはいろいろあります。例えば、一票の格差を意図的に操作する方法。都市部の一選挙区当たりの有権者数を多くすることで、都市部の有権者の指向性を選挙結果に反映できないように誘導します。

与党支持者が多い地域が明らかな場合には、その地域の選挙区を多くする一方、野党支持者が多い地域は可能な限り少数の選挙区とし、結果的に与党の議席数を増やします。

語源は1812年に遡ります。マサチューセッツ州のエルブリッジ・ゲリー知事が、自分の所属政党に有利になるように選挙区割りをした結果、選挙区の形が奇妙なものとなりました。それがサラマンダーに似ていたことから、ゲリーとサラマンダーを合わせた造語「ゲリマンダー」が誕生。

サラマンダーは中世の「動物寓意譚」に登場する架空の生物。火を司る精霊とも言われ、トカゲやドラゴンのような姿。ファイアー・ドレイクと同一視している文献もあります。

今日では両生類の一種である有尾類(有尾目)科の動物の英語名にもなっています。日本語では「サンショウウオ」と訳される場合が多いですが、要するに、イモリやサンショウウオのようなクネクネした不思議な形状をした生物。

戦後日本の総選挙は中選挙区制であったため、「ゲリマンダー」は発生せず。なぜなら、人口変動が生じても定数増減で対応可能であったこと、各選挙区が概ね行政(市区町村)境界で規定されていたため、恣意的区割りの余地があまりなかったこと等によります。

そうした状況下、総選挙に小選挙区制を導入しようとすると、野党や有識者から「ゲリマンダーを画策している」と批判されるのが一般的でした。

小選挙区制導入を企図した政権は、首相の名前とゲリマンダーを重ねた造語で揶揄され、ハトマンダー(鳩山一郎内閣)、カクマンダー(田中角栄内閣)、カイマンダー(海部俊樹内閣)などと言われました。首相ではありませんが、戦前の政治家では床次竹二郎がトコマンダーと言われました。

1996年の総選挙から小選挙区制が導入されたことから、「ゲリマンダー」が行われる可能性が指摘されています。

このため、内閣府(旧総理府)に選挙区画定審議会が設置され、同審議会が行政区画、地勢、交通等の事情を総合的に勘案して区割り案を内閣に勧告し、内閣提出の区割り案が国会で審議されるのが慣例となっています。

最近の日本では、「野(や)党」と「与(よ)党」の中間にあって、良く言えば是々非々、悪く言えば政府に擦り寄る「癒(ゆ)党」が存在することから、「ゲリマンダー」論争も単純な与野党構図だけでは深層が見えてきません。要注意です。

最後に、英国では国王から野党第1党に対して公的地位が与えられ、「国王の王立野党」と呼ばれます。議会制民主主義の源流である英国が、野党の重要性を諭しています。

(了)


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