フランス同時多発テロ事件の犠牲者に哀悼の意を表するとともに、負傷者に心からお見舞いを申し上げます。いかなる理由があってもテロは許されません。こうしたことが起きない世界を目指して不断の努力が必要です。そのためには、過去の歴史と人間の愚かさを理解しなければなりません。今日のテロ拡散の背景を知るうえで、少なくともオスマン帝国崩壊とイラン革命(イスラム革命)について理解する必要があります。
1.オスマン帝国崩壊
今日の中東の政治的混乱、それを背景とするテロ拡散の淵源は、20世紀初頭のオスマン帝国崩壊まで遡る必要があります。
もっと遡れば、古代ローマ帝国、中世イスラム帝国の歴史等に踏み込まなくてはなりませんが、ここではあくまで近代史以降の整理にとどめます。
「オスマントルコ帝国」という表現は正確ではありません。1299年の建国の始祖、オスマン1世に由来して「オスマン帝国」と称することは間違いではありませんが、帝国内は多宗教・多民族が共存。
トルコ民族だけの国ではなかったことから、「オスマントルコ帝国」ではなく「オスマン帝国」と呼ぶのが適切と言えます。
最盛期は17世紀後半。領土は東欧南部、バルカン半島、黒海・カスピ海沿岸、アナトリア半島(西アジア)、中東、アラビア半島沿岸、北アフリカに及び、南欧を除く地中海沿岸全域がオスマン帝国でした。
最盛期以降、西欧諸国やロシア帝国の南下に伴い、領土は徐々に縮小。同時期、トルコ民族主義が強まってきたことから、アラブ民族等の他民族が反発。国内は徐々に混迷の度合いを強めていました。
そうした中で勃発した第1次世界大戦。オスマン帝国はバルカン半島の汎スラヴ主義拡大を抑える意図もあり、バルカン半島に進出するドイツに接近。第1次世界大戦は同盟国側(ドイツ側)の一員として参戦しました。ここからが今回の本題です。
大戦中に国内のアラブ人等が蜂起。これに目をつけたのが連合国側、とくに英国です。英国の工作員としてオスマン帝国に派遣されたのがトーマス・エドワーズ・ロレンス。通称「アラビアのロレンス」です。
ロレンスはアラブの名門ハーシム家に接近。ハーシム家の当主はフサイン・イブン・アリ―。後のヨルダン王家の直系の祖となります。その息子がファイサル・イブン・フサイン。後のイラクとシリアの初代国王です。
ロレンスは彼らを扇動し、オスマン帝国からのアラブ独立のために活躍。しかし、その本当の目的は、オスマン帝国軍をアラブ人対応に釘付けにし、英国軍の行動を容易にするためだったと言われています。
そして、その間に行われたのが矛盾に満ちた三重外交。すなわち、英国がアラブ人に独立を約束した「フサイン・マクマホン協定(1915年)」、英仏露がアラブ地域の三分割統治を密約した「サイクス・ピコ協定(1916年)」、英国がユダヤ人に独立を約束した「バルフォア宣言(1917年)」でした。
フサインはハーシム家当主、マクマホンは英国外交官、サイクスは英国特使、ピコはフランス外交官、バルフォアは英国外務大臣の名前です。
第1次世界大戦終結(1918年)後、オスマン帝国は1922年に崩壊。トルコ共和国が誕生する一方、分離された中東、アラビア半島、北アフリカは、アラブ人の期待を裏切り、西欧諸国が植民地支配または委任統治。これが、今日まで続く混乱の始まりです。
その後、1940年代にかけて中東諸国が次々と独立。しかし中東諸国は、第2次世界大戦終結(1945年)後の米ソ東西対立の力学に影響されるとともに、1948年のイスラエル独立によって反イスラエル・反シオニズムの力学に翻弄され、今日に至っています。
「シオニズム」とは、故郷パレスチナにユダヤ人国家を建設する運動のこと。しかし、そのパレスチナはアラブ人にとっても故郷。ここに、ユダヤ人とアラブ人の根深い対立が発生。冒頭で触れたように、その本来の淵源は古代まで遡ります。
2.イラン革命(イスラム革命)
中東諸国のうち、イランは1926年に独立(パーレビ朝)。ソ連の南方に位置することから、第2次世界大戦後は米国が支援。
1953年、石油国有化を断行しようとしたモサッデグ首相が米英両国による干渉で失脚。パーレビ国王自らが全権を掌握し、CIA、FBI、モサド(イスラエル情報機関)の支援で秘密警察を組織。以後は圧政の下で、近代化・西欧化(白色革命)を推進しました。
しかし、圧政による抑圧と白色革命に対する国民の反発が高まり、1979年、亡命中のホメイニ師(シーア派)を精神的支柱として、反国王・イスラム国家樹立を目指すイラン革命(イスラム革命)が勃発。
しかも、革命勢力は米国の影響を駆逐する一方、東西冷戦下のソ連にも頼らず、第三世界自立の先駆けとなりました。
1980年、米国はイランと国交断絶。米英両国はイランに輸出予定であった武器をイスラエルに転売。イスラエルはその武器をイランと対立関係にあった西側の隣国イラクに輸出。
イラクは長年国境線を巡ってイランと対立していたほか、シーア派によるイスラム革命成功がイラク国内のシーア派に飛び火することを懸念。こうした背景から、1980年、イラクは突然イランに侵攻し、イラン・イラク戦争が勃発。1988年まで続きました。
米国は政治力学上、イラクを支援。ところが、その背景では、第1次世界大戦の時と同様に矛盾に満ちた多層外交が再び行われました。
宗教・民族対立に端を発したレバノン内戦(1975年から1990年)に介入してシーア派組織(ヒズボラ)の捕虜となった米兵救出のため、米国はレバノンの後ろ盾であったイランに接近。
ヒズボラへの仲介を期待しての接近でしたが、その見返りに米国はイランに武器を輸出。さらに、その代金を米政府高官が議会に無断で中米ニカラグアの反共ゲリラ(コントラ)に供与。1986年、事態が発覚し、イラン・コントラ事件として米国内外での大スキャンダルとなりました。
イラクを支援しつつイランに武器を輸出するという矛盾の一方、支援したイラクのフセイン大統領が力をつけ、やがて米国と対峙するという矛盾も生み出します。
同時期、さらなる矛盾が進行します。イラン革命が東側の隣国アフガニスタンや国内イスラム勢力に波及することを懸念したソ連が、1979年、アフガニスタンに侵攻。
サウジアラビア(サウド家)はアフガニスタンの王家支援のため、富豪であったビン・ラディン家に協力を要請。
ここで登場するのが一族の一員であったウサマ・ビン・ラディン。要請に応じてアフガニスタン入りし、米国はウサマを支援。ウサマはムジャヒディン(イスラム義勇兵)を組織化し、これがアルカイダのルーツとなりました。
1989年、東西冷戦終結直前、弱体化したソ連はアフガニスタンから撤退。1990年、ウサマはサウジアラビアに英雄として帰国しました。
3.フセイン大統領とウサマ・ビン・ラディン
フセイン大統領もウサマ・ビン・ラディンも米国が支援して育てたとも言えるのは皮肉な経緯。やがて、両者とも米国と戦うことになります。
1990年、軍事大国化したイラク(当時世界4位の軍事大国との評価)が油田権益を狙ってクェートに侵攻。 1991年1月17日、多国籍軍による空爆が開始され、湾岸戦争が勃発。多国籍軍の圧倒的な勢いにより、3月3日に停戦。しかし、この早期停戦によってイラクの戦力が温存されたことが、後のイラク戦争につながります。
湾岸戦争敗戦により求心力を低下させたフセイン政権に対し、シーア派やクルド族等が蜂起(1991年以降)。フセイン政権による反政府勢力弾圧の犠牲者(死者)は10万人以上と言われています。
1993年、米ブッシュ(父)前大統領暗殺未遂事件が発覚。米国はイラク諜報機関への報復ミサイル攻撃を実施するなど、1990年代を通して、両国間は緊張関係が継続します。
2002年1月、米ブッシュ(息子)大統領による有名な「悪の枢軸(イラク、イラン、北朝鮮)」発言。翌2003年3月20日、米国は大量破壊兵器保有の嫌疑を理由にイラク攻撃を開始。「国連決議1441」が国際的な免罪符(根拠)となりました。
5月1日、ブッシュ大統領による戦争終結宣言。12月13日、フセイン大統領拘束。フセイン大統領は裁判を経て、2006年12月30日に処刑されました。
一方のウサマ。湾岸戦争に際してサウジアラビアが国内への米軍駐留を認めたことに反発。反サウド家、反米姿勢を強めます。
1992年、ウサマはサウジアラビアを出国。サウド家による追放とも言われ、ビン・ラディン家もウサマとの関係断絶を宣言。
以後、ウサマはスーダン及び世界各地を潜伏。1996年以降はアフガニスタンを拠点としたと言われています。
その間、NY世界貿易センタービル爆破事件(1993年)、旅客機同時爆破ボジンカ計画等発覚(1995年)、サウジアラビア米軍基地爆破事件(1996年)、ケニア・タンザニア米大使館爆破事件(1998年)、イエメン沖米艦襲撃事件(2000年)、米同時多発テロ(9.11)事件(2001年)等、多くのテロ事件に関与したと言われています。
「9.11」後にウサマ・ビン・ラディンの名前を初めて知った人も多いことでしょう。私もそのひとりです。
その後の10年に及ぶ米国との闘争の末、ウサマは2011年5月2日、米海軍特殊部隊の軍事作戦によって殺害されたと報道されています。
関係文献によれば、ビン・ラディン家とブッシュ家はビジネス上のつながりがあったそうです。ウサマの父ムハンマドとブッシュ父大統領は、カーライル投資グループの大口投資家であり役員仲間。
さらに、ウサマの長兄サーレムはブッシュ息子大統領が経営していた石油会社の共同経営者だったそうです。ウサマと対立したブッシュ親子。当事者同士しかわからない因縁がありそうです。
ウサマが組織した過激派組織アルカイダは、シリアを含む中東諸国に広く潜伏。シリア国内では、今回のフランス同時多発テロ事件で犯行声明を出したと報道されている「IS(イスラム国)」と対立しているとも言われています。
シリアでは、1963年以降、現在のバアス党政権が継続。アサド親子による支配は1971年以降続いています。アラブ民族主義を標榜し、当初からイスラエルと対立。4度の中東戦争を戦い、1967年(第3次中東戦争)で失ったゴラン高原奪還が悲願です。
シリア問題に関する詳細はメルマガ343号(2015.9.11)をご覧ください(ホームページでご覧になれます)。
ISの淵源もイスラエル問題に帰着し、発足は2000年頃に遡るようです。関係文献によれば「JTJ、MSC、ISI、ISIL、ISIS」と組織や名前を変遷させています。
一方、アサド政権打倒を企図した米国によるISへの武器供与を米共和党ランド・ポール議員が指摘した(2014.6.23)ほか、中東への深入りを躊躇する米ヘーゲル国防長官は辞任しました(2014.11.24)。
第1次世界大戦やイラン革命(イスラム革命)時と同様に、矛盾に満ちた駆け引きが行われているかもしれません。いや、国際政治の裏側では、当然そういうことが起きていると考えるべきでしょう。
日本の対応には、用心深い洞察力が必要だと思います。国民と国のリスクを極小化するための判断と行動は、単純なものではありません。
(了)